織田信長には、信勝(信行)・信包・長益(有楽斎)など、複数の弟がいました。伝わる系図では弟が10人ほどいたと説明されることがありますが、兄弟の人数や生まれた順番は史料・系図によって異なり、「必ず10人」と断言することはできません。
最もよく知られるのは、信長と家督を争った弟織田信勝(のぶかつ)です。「織田信行(のぶゆき)」の名でも知られています。一方、信包は大名として、長益は武将・茶人として長く生きました。同じ兄弟でも、信長との関係もその後の道も大きく異なります。
この記事では、弟たちの名前と関係を先に確認したうえで、なぜ信長と信勝が戦ったのか、信長に殺された弟は誰なのか、ほかの弟はどうなったのかを、史料と公的機関の公開情報をもとに詳しく見ていきます。父母・妻・子ども・孫まで含む血縁全体は、別記事の織田信長の家系図で確認できます。
織田信長の弟は何人?名前と関係がわかる一覧
信長の父は織田信秀です。信秀には多くの子がいたと伝わり、後世の系図には多数の男子の名が登場します。ただし、古い系図はすべて同時代に作られたわけではありません。名前の異表記や人物の同定、長幼の順序について検討の余地があります。
まず、信長の弟として語られる主な人物を挙げます。下表は確定した出生順の表ではありません。また、事績が比較的詳しくわかる人物と、系図などで名前を確認できる人物とを同列に確定扱いしないため、資料上の位置づけも併記しました。
| 名前 | 信長との関係・主な特徴 |
|---|---|
| 織田信勝(信行) | 弟。末森城を拠点とし、1556年の稲生の戦いで兄と対立した。 |
| 織田秀孝 | 弟。若くして不慮の死を遂げたとする記録がある。 |
| 織田信包(のぶかね) | 弟。伊勢方面で活動し、のちに豊臣政権下でも大名として生きた。 |
| 織田長益(ながます) | 弟。のちの有楽斎。武将であると同時に茶人としても知られる。 |
| 信治・信興・信照・秀成・長利ら | 信秀の子として諸系図に記される名。個別の生涯や出生順には資料による違いがある。 |
弟を「10人」と数える説明があるのは、信秀の男子を12人とする系図などに由来します。ただし、信長の異母兄・織田信広を含めて何人とするか、系図に記された名前を別人として数えるかで違いが出ます。したがって、人数だけを暗記するより、信勝・信包・長益という主要人物を軸に兄弟関係を見るほうが、実際の歴史をつかみやすくなります。
越前町織田文化歴史館は、長益について「信秀の11子で信長の弟」と明記しています。一方、岐阜市は信長が弟・信勝を殺して家督争いに勝ったと説明しています。まず公的資料で確認できる関係を土台にするのが確実です。
信長の兄・弟・妹を混同しないための家族関係
「信長の兄弟」を調べると、信勝・信包・長益のほかに、信広・お市の方、信忠・信雄・信孝なども並ぶことがあります。名前が似ていても世代は違います。
父:織田信秀
- 兄:織田信広(異母兄)
- 信長:織田信長
- 弟:信勝(信行)・信包・長益ほか
- 妹:お市の方
信長の子ども:信忠・信雄・信孝ほか
特に注意したいのが「信勝」と「信雄」です。信勝(信行)は信長の弟ですが、信雄(のぶかつ)は信長の息子です。漢字も世代も違います。信長の嫡男・信忠も弟ではなく子どもにあたります。
また、お市の方は信長の妹で、浅井長政との間に茶々・初・江の三姉妹が生まれたと伝わります。三姉妹は信長の娘ではなく、姪にあたります。詳しくは家系図の記事をご覧ください。
信長と戦った弟・織田信勝(信行)はどんな人物?
信長の弟の中で、特に重要なのが織田信勝です。通称は勘十郎。「織田信行」の名でも長く紹介されてきました。父・信秀が築いた尾張の勢力をめぐって、兄・信長と対立するようになった人物です。
「信勝」と「信行」は別人?同じ弟を指す呼び名
信長の弟を「織田信行」と覚えている人も、「織田信勝」と聞いた人もいるでしょう。この二つは、信長の家督を争った同一人物を指す名前として使われています。
古くから普及した人物紹介には「信行」が使われますが、当時の文書では「信勝」のほか「信成」という名も確認できます。名古屋市博物館『博物館だより』211号の8ページは、信長の弟・信勝が「信成」と改名して熱田の有力商人・加藤家に安堵状を発給したことを説明しています。研究・検索では「信勝(信行)」「勘十郎」「信成」の表記を区別し、別人のように数えないことが重要です。
なお、信長の息子である織田信雄も「のぶかつ」と読みます。弟の信勝と、息子の信雄は別人です。親子と兄弟を取り違えないよう、この記事では原則として弟を「信勝(信行)」と表記します。
信勝の拠点は末森城。父の死後も独自の基盤があった
信長と信勝の対立は、単なる兄弟げんかではありません。父・信秀が築いた領地・家臣団を、誰が主導するのかという政治問題でもありました。信長は後継者となり、信勝は末森城を拠点としました。
現在の名古屋市千種区にある城山八幡宮の周辺は、末森城があった場所です。名古屋市の史跡案内によると、父・信秀が古渡城から移った城で、信秀の死後は弟・信行の居城になりました。信行の死後、城は廃城となったとされています。
この所在地を確認すると、家督争いの実態が見えてきます。信勝は兄の屋敷に同居するだけの人物ではなく、城と家臣を持つ領主でした。家中に信勝を支持する家臣が現れた背景も、このような独自の基盤を踏まえて考える必要があります。
1556年の稲生の戦いで、信長と弟・信勝は敵同士になった
兄弟の対立が合戦に発展したのが、弘治2年(1556年)の稲生(いのう)の戦いです。信長側と、信勝を支持する勢力が尾張で衝突しました。名古屋市図書館の地域史案内は、1556年8月24日に信長が信勝と戦って勝利したことを、『愛知県史』の記述とともに紹介しています。
信勝方には柴田勝家らが加わり、信長方との戦いとなりました。後に信長の有力家臣となる柴田勝家が、最初から一貫して信長を支持していたわけではない点は、この時期を理解するうえで重要です。勝家のその後の出世を知っていると意外ですが、当時の家臣たちは信秀の子のどちらを支持するか、選択を迫られていました。
| 項目 | 稲生の戦い |
|---|---|
| 時期 | 1556年(弘治2年) |
| 場所 | 尾張国稲生周辺(現在の名古屋市西区付近) |
| 主な対立 | 織田信長方と、弟・織田信勝を支持する勢力 |
| 結果 | 信長方が勝利 |
| その後 | 信勝はただちに合戦で討ち死にしたわけではなく、兄弟の対立は続いた |
稲生の戦いは、桶狭間の戦い(1560年)の4年前に起こっています。今川義元を破る以前の信長には、まだ尾張の内部を固める課題がありました。周辺の戦国大名だけでなく、自身と同じ織田家の勢力と争っていたのです。
ここで区別しておきたいのは、1556年の稲生の戦いで信勝が即死したわけではないという点です。戦いの後に一度は許され、やがて命を落とすまでの経過は、別の段階として見る必要があります。
なぜ信長と弟・信勝は対立したのか?
対立を理解する鍵は、家督相続、城と家臣団、信長への評価の三つです。兄が弟を個人的に嫌っていた、という一つの感情だけで説明できる出来事ではありません。
父・信秀の死後、織田家の主導権が争われた
尾張の織田家は、一枚岩の大名家だったわけではありません。清洲方・岩倉方など複数の勢力が並び、信長の父・信秀は、その中で弾正忠家の力を伸ばしていました。父の死後、信長はこの勢力を引き継ごうとしますが、その支配は最初から完全に確立していたわけではありません。
信勝にも末森城を中心とした基盤があり、家中の有力者の中には弟を支持する者がいました。信長が「嫡男」であっても、それだけで領内の全員が従うとは限らないのが戦国時代の家督争いです。
柴田勝家ら家臣の支持が分かれた
稲生の戦いでは、信勝を支持した家臣の存在が大きな意味を持ちました。よく知られるのが柴田勝家です。勝家は後年、信長の重臣として北陸方面などで活躍しますが、若い頃の主君の選択は異なっていました。
家臣がどちらの兄弟につくかは、その人の領地や仕える主君、今後の家中での立場に直結します。「信長の方が有名だから、当時の家臣もみんな信長を支持したはず」と考えると、実際の家督争いが見えなくなります。
「母が弟をひいきしたから」だけで説明できる?
信長の母・土田御前が信勝をかわいがり、「うつけ」と呼ばれた信長より弟が期待されていた、という話は広く知られています。こうした逸話は当時の兄弟関係を考える手がかりになりますが、母の好みだけで合戦が起きたと断定することはできません。
末森城という拠点があり、信勝を支持する家臣がいたこと、尾張全体の支配がまだ安定していなかったことを合わせて考えると、兄弟の対立には明らかな政治的背景があります。後世の性格描写や親子間の感情と、城・領地・軍事行動として確認できる事実は分けて見たいところです。
信長に殺された弟は誰?信勝の最期と没年の違い
信長の命によって命を落とした弟として知られるのは、信勝(信行)です。名古屋市の末森城址案内にも、信行が信長に謀殺されたことが記されています。岐阜市の歴代城主紹介も、信長が弟・信勝を殺し、家督争いに勝利したと説明しています。
『信長公記』では、信勝が稲生の戦いで敗れた後、いったん許され、再び対立して命を落とすまでが語られます。後世の軍記や人物解説には場面の詳しい描写もありますが、会話や胸中を事実として再現できるわけではありません。
信勝の死亡年は1557年?1558年?
信勝(信行)の死については1557年説と1558年説が伝えられます。ただし、日付の検討には重要な同時代資料があります。名古屋市博物館『博物館だより』211号(8ページ)は、弘治3年(1557年)11月25日付の織田信成判物(加藤文書)を紹介し、「信成」は信勝が改名した名だと説明しています。同号では、信長による11月27日付の判物も確認できます。信勝本人が1557年11月25日に文書を発給していたならば、1557年11月2日に殺されたという年表の記述とは両立しません。1558年説の検討につながる資料ですが、没年の確定には『信長公記』の本文・異本や日付の校合も必要です。本記事は確定値として1557年・1558年のいずれか一方を断言しません。
どちらの説を採る場合でも、押さえておきたい順番は変わりません。1556年に稲生の戦いが起こり、信長方が勝利し、信勝はその場では死なず、その後に信長との対立の中で殺害されたという流れです。
信勝だけではない。信長のほかの弟たちの生涯
「信長の弟」と聞いて信勝だけを思い浮かべる人も多いかもしれません。しかし、信長に敵対した弟だけが織田一族ではありません。織田家の一員として城を治めた人物、戦いの中で命を落としたと伝わる人物、信長の死後も活動した人物がいます。
織田信包|信長の死後も大名として生きた弟
織田信包(おだ・のぶかね、1543〜1614年)は、信長の弟で、伊勢方面を中心に活動した武将です。講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』によれば、信秀の四男にあたり、本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕え、伊勢安濃津城主や丹波柏原城主になりました。
信包は、信長と争った信勝と違い、本能寺の変を越えて江戸時代初期まで生きた人物です。関ヶ原の戦いでは西軍に属しましたが、所領を安堵されたと辞典は記しています。
また、信包はお市の方や浅井三姉妹との関係でも名が登場します。ただし、三姉妹をいつ、どこで、どれほどの期間保護したかには資料ごとの記述差もあるため、具体的な居所・年数を断定する場合には別途の裏付けが必要です。
織田長益(有楽斎)|茶人としても名を残した弟
織田長益(おだ・ながます、1547〜1621年)は、織田有楽斎(うらくさい)の名でよく知られる武将・茶人です。越前町織田文化歴史館の学芸員による解説では、信秀の11子で信長の弟と説明されています。
長益は、信長の弟でありながら、その死後の豊臣政権や江戸時代初期まで生きました。剃髪後の号である「有楽斎如庵」も知られています。同じ弟でも、若い時期に信長と争って命を落とした信勝と、茶の湯の世界にも足跡を残した長益では、人生がまったく異なることがわかります。
信長の時代から江戸時代への移り変わりを知りたい人にとって、有楽斎は大変興味深い人物です。戦場だけではない戦国武将の生涯を知る入口にもなります。
織田秀孝|若くして命を落としたと伝わる弟
織田秀孝は、信長の弟として系図や軍記の記述に登場します。叔父・織田信次に仕えた人物から誤って射られたという話が伝わりますが、ここでは同時代の原文まで確認できていないため、伝承として扱います。
この出来事は織田家の親族間にも波紋を広げたと伝えられます。ただし、郷土誌に載る物語的な場面まで、すべて同時代の一次史料で確定した事実として扱うことはできません。ここでは、「そのような伝承・記録がある」という範囲で紹介します。
信治・信興・信照・秀成・長利など、記録の少ない弟たち
ほかにも、信治・信興・信照・秀成・長利といった名前が織田一族の系図に登場します。なかには戦いの中で討ち死にしたとする記述があり、また活動の細部を追いにくい人物もいます。
こうした弟については、生没年・生母・兄弟内の順番・本人の行動を、一つの系図だけで埋めてしまうと誤りが生まれます。名前が挙がることと、その生涯の詳細まで確かめられていることは別です。資料が乏しい人物を無理に断定せず、確かな記録の範囲を示すことも大切です。
信長と弟たちの関係を年表で見る
| 時期 | 兄弟に関係する出来事 |
|---|---|
| 1550年代初頭 | 父・信秀の死後、信長と信勝らが異なる拠点・家臣を持つ状態になる。 |
| 1556年 | 稲生の戦い。信長と弟・信勝が戦い、信長方が勝利。 |
| 1550年代後半 | 信勝が殺害される。没年には資料によって違いがある。 |
| 1560年 | 信長が桶狭間の戦いで今川義元を破る。兄弟間の争いを経た後の出来事。 |
| 1582年 | 本能寺の変で信長が死去。その後も信包・長益などが活動する。 |
| 1614年 | 信包が死去。 |
| 1621年 | 長益(有楽斎)が死去。 |
この年表からわかるのは、信長の弟たちを「家督争いで殺された人々」と一括りにはできないことです。信勝の最期は信長の尾張統一に直結しましたが、信包・長益は戦国時代の後半から江戸時代初期まで活動しました。
織田信長の弟に関するよくある疑問
Q. 織田信長の弟は全部で何人?
A. 弟を10人前後とする説明がありますが、後世の系図には人物の同定や出生順の問題があり、正確な人数を確定できません。信勝(信行)・信包・長益など、資料から関係を追える弟を中心に確認するのが確実です。
Q. 織田信長に殺された弟は誰?
A. 家督争いで信長と対立した信勝(信行)です。1556年の稲生の戦いで敗北した後、ただちに戦死したのではなく、その後に殺害されました。詳細な死亡年には資料差があります。
Q. 織田信勝と織田信行は同じ人?
A. 信長の弟という文脈では同一人物を指します。古くから「信行」の名がよく使われますが、文書に見える「信勝」などの呼称に注目する研究もあります。
Q. 織田信雄(のぶかつ)も信長の弟?
A. いいえ。織田信雄は信長の子どもです。弟の信勝とは別人です。漢字表記と家族内の世代で区別できます。
Q. 信長の弟たちはみんな殺された?
A. いいえ。信包は1614年、長益(有楽斎)は1621年まで生きました。弟たちの生涯はそれぞれ異なり、「全員が信長に殺された」という話ではありません。
参考史料・公的資料
本文の年次・親族関係・城の所在地は、自治体や博物館が公開している資料を中心に照合しました。人物の人数や没年など、資料間で異なる点は断定を避けています。
- 岐阜市「岐阜城の歴代城主」――信長と弟・信勝の家督争い。
- 名古屋市「城山八幡宮・末森城址」――末森城、信秀、信行の関係。
- 名古屋市図書館「なごやカレンダー8月」――1556年の稲生の戦いと『愛知県史』への参照。
- 名古屋市博物館『博物館だより』211号(2014年10月)8ページ――信勝(信成)による弘治3年11月25日付判物と、同月27日付の信長判物。没年の異説を検討する重要な資料。
- 越前町織田文化歴史館「えちぜん年代記:織田有楽斎の生涯」――長益の生涯・信秀との親子関係。
- 講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』「織田信包」――信包の経歴・生没年。
- 名古屋市博物館「三英傑と名古屋」――尾張の織田氏の分裂、弾正忠家の歩み。
- 太田牛一『信長公記』――信長と弟の対立を伝える基本史料。ただし、異本間の年次や後世の解釈にも注意が必要です。
信長の兄弟を知ったら、次は家督と一族全体へ
信長の弟たちを見ると、若い信長が最初に向き合った相手は、今川義元や武田信玄のような外部の大名だけではなかったことがわかります。家族の中にも城と家臣を持つ勢力があり、その対立を経て尾張統一へ向かったのです。
一方、信包や長益のように、信長の死後も活動した弟もいました。兄弟の人生を比べることは、織田家が戦国時代の始まりから江戸時代初期まで、どのような形で生き残ったかを知る手がかりになります。
人物全体を読むなら織田信長の人物データベース、血縁を図で確かめるなら織田信長の家系図も合わせてご覧ください。
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