豊臣秀吉は1587年(天正15年)、キリスト教の宣教師(バテレン)に国外退去を命じる「バテレン追放令」を出しました。背景として、豊臣政権による統治の拡大、布教活動と日本の寺社・在地社会との摩擦などが指摘されています。ただし「秀吉が貿易まで全面禁止した」「その日から日本のキリスト教徒が一人残らず処罰された」と説明するのは不正確です。
ここでは、1587年の追放命令に書かれたことと、1597年の日本二十六聖人の処刑を分けて確認します。二つは関係しますが、同じ事件ではありません。
バテレン追放令はいつ出された?
1587年(天正15年)、九州の島津氏を服属させた後、秀吉は博多の陣中で宣教師の追放を命じました。近畿大学中央図書館のレファレンス記録は、辞典に基づいてこの発令の時期と経緯を整理しています。一般に天正15年6月19日付の文書が引かれます。
「バテレン」はポルトガル語のパードレに由来する宣教師・神父の呼称です。追放令の中心は宣教師を日本に置かないという方針であり、貿易商人や日本人信徒の扱いを同じ文言で一律に説明しないことが大切です。
6月18日の「覚」と6月19日の「定」は別文書
1587年のキリスト教政策を理解するときには、日付の近い二つの文書を分ける必要があります。レファレンス協同データベース(近畿大学中央図書館の調査)では旧暦6月19日付「定」5か条を確認でき、『日本大百科全書』の解説では旧暦6月18日付「覚」11か条が神宮文庫所蔵の写本に残ることが紹介されています。18日付の文書がどこまで伝達されたかは、研究上慎重に考える必要があります。
| 日付(旧暦) | 文書 | 押さえる点 |
|---|---|---|
| 6月18日 | 11か条の「覚」 | 信仰・領主による統制などをめぐる規定を含む関連文書。19日付の追放命令と混同しない |
| 6月19日 | 5か条の「定」 | 宣教師の国外退去や「黒船」の商売を別に扱う規定を含み、一般に追放令として紹介される |
ここでいう文書の区別は公開された史料紹介・翻刻に基づくものであり、両文書のすべての異同を原本画像で校訂したものではありません。
なぜキリスト教の宣教師を追放したのか
天正15年6月19日付の追放令には、寺社への攻撃や信仰の拡大に対する政権側の批判が表れています。「松浦文書」に由来する史料翻刻では、宣教師が人々を信徒にすることや神社仏閣の破壊が問題として挙げられています。
ここで区別すべきなのは、追放令に書かれた秀吉側の非難と、当時の各地でそれがどこまで、どのような形で起きていたかという歴史研究上の検証です。法令の主張をそのまま全地域の出来事として断定するべきではありません。
九州平定によって、秀吉はキリシタン大名の領地や南蛮貿易と密接に関わる地域へ権力を広げました。九州征伐で大軍を率いた豊臣秀長の役割も、政権が勢力を拡大した背景の一つです。信長と石山本願寺の戦いも宗教勢力と政治権力の関係を考える事例ですが、石山合戦と宣教師の追放令は、対象と歴史的背景が異なるため混同できません。政権として宗教勢力の活動を統制したい意図があったと理解できますが、発令理由を一つの事件・一人の人物への感情だけで説明できるわけではありません。
キリスト教禁止と南蛮貿易の禁止は同じ?
| 事項 | 史料で確認できる主な扱い | 注意点 |
|---|---|---|
| 宣教師 | 6月19日付「定」は、発令日から20日の間に帰国するよう命じる | 命令の期限と、実際に全員が退去したかは別問題 |
| 宗教活動 | 布教や寺社への攻撃を批判 | 日本人信徒全員の即時処罰と同一ではない |
| 南蛮貿易 | 商取引は別の事柄として扱う文言がある | 布教規制と交易政策を区別 |
| その後の処罰 | 1597年に日本二十六聖人の処刑が起こる | 1587年の法令発布日と混同しない |
『大村市史』中世編の416〜417頁(PDF 116〜117ページ付近)は、6月19日付の「定」5か条を掲載しています。宣教師に20日以内の帰国を求める条文と、黒船の商売は別とする条文を確認できます。布教の規制が直ちに対外交易の全面停止を意味したわけではありません。
ただし、規定と実行は分けて判断してください。命令文に20日とあることだけから、すべての宣教師が期限どおりに国外へ出たと断定することはできません。
なお、ここで照合したのは翻刻の公開本文であり、所蔵原本の筆跡を独自に解読したわけではありません。歴史史料の引用は、この確認範囲を明示して理解する必要があります。
1587年の追放令と1597年の日本二十六聖人
発令から約10年後の1597年、長崎で26人のキリスト教関係者が処刑されました。長崎市の文化財解説は、宣教師6人と日本人20人が大阪・京都などで捕えられ、長崎へ護送され、西坂の地で処刑されたことを紹介しています。
これは、1587年の命令を出したその場で26人を処刑した出来事ではありません。追放令とその後の統制の展開を、年表上も別の節目として記述する必要があります。
また、当時の国家による宗教政策を現在の価値観だけで一言にまとめるのではなく、宗教上の自由に対する規制や処刑という歴史的事実を具体的に説明することが大切です。
キリスト教徒は1587年以降、すぐに全員いなくなった?
いいえ。法令が出たことと、その後の国内のすべての宣教師・信徒の活動実態は同じではありません。追放令後も布教や信仰が続いたことを考える際には、地域ごとの状況、貿易の継続、1597年の処刑に至る経緯を分けて見る必要があります。
「禁止されたのに一人でも活動していたのだから追放令は存在しなかった」とするのも、「追放令が出たので日本の信仰が完全に消えた」とするのも誤りです。
よくある質問
豊臣秀吉がバテレン追放令を出したのは何年?
1587年(天正15年)です。一般に旧暦6月19日付の「定」5か条を指します。前日6月18日付の「覚」11か条も関連文書として残ります。
バテレン追放令で南蛮貿易も禁止した?
追放令には商取引を別として扱う文言があり、宣教師の追放と貿易の全面禁止は同じではありません。
豊臣秀吉はなぜ宣教師を警戒した?
追放令の文面では布教の拡大や寺社の破壊が問題視されています。九州支配や統治権との関係を含めて理解すべきで、単一の理由に還元しない方が正確です。
日本二十六聖人が処刑されたのはいつ?
西暦(現在の暦)では1597年2月5日です。長崎市の解説では当時の旧暦にあたる慶長元年12月19日と併記されています。1587年6月19日という追放令の日付は旧暦なので、暦の種類も区別してください。
まとめ
豊臣秀吉のキリスト教政策を理解する鍵は、1587年の宣教師追放・交易の扱い・1597年の処刑を分けることです。法令に記された政権側の主張と、各地で実際に起きたことも区別すると、単純な「宗教も貿易もすべて禁止した」という誤解を避けられます。
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