織田信長の身長は「170cm」と紹介されることがありますが、本人の身長を実測した記録が確認できるわけではありません。信長に会った宣教師ルイス・フロイスは、身長を具体的な数字ではなく「中くらいの背丈」と記しました。170cmという数字は後世の推定と区別して受け止める必要があります。
この記事では「何cmだったのか」という疑問に最初に答えたうえで、数字の出典、同時代人の証言、肖像画から推測できることの限界を確認します。信長の性格や行動の評価は織田信長の性格の記事に分け、ここでは背丈と体格に関する証拠に絞ります。
織田信長の身長は何cm?最初に結論
| よくある疑問 | 確認できる答え | 根拠の種類 |
|---|---|---|
| 身長は170cm? | 170cmとする書籍・紹介は存在する。ただし実測値と確認できない | 現代の推定・紹介 |
| 当時の記録は? | フロイスは中くらいの背丈で、細身と記述 | 同時代人による人物評 |
| 正確な身長は? | 現在の資料からは確定できない | 数値を示す直接証拠が不足 |
| 背が高かった? | 比較相手と測定条件が不明なため、断定しにくい | 推定と評価を区別 |
「170cm説」はどこから来た?出典を確認
大阪府立図書館の書籍紹介(2016年10月20日)は、篠田達明著『日本史有名人の身体測定』に示された推定身長として、織田信長170cm、豊臣秀吉140cm、徳川家康159cmを挙げています。出版社KADOKAWAの刊行情報と国立国会図書館の書誌情報から、同書が2016年に刊行されたことも確認できます。
ただし、今回確認できた図書館の紹介文と出版社・図書館の書誌情報からは、信長の170cmをどの史料・計算式から導いたかまでは検証できません。書籍そのものの該当ページを直接照合したわけではないため、算定根拠については未確認とします。紹介記事の掲載と、戦国時代に身長を実測した記録の存在は別です。「170cmと紹介する著書がある」という表現にとどめます。
推定と実測の違い
身長の推定では、人物評、衣服や武具の寸法、後世の肖像などが材料として語られることがあります。けれども、武具は調整して使えますし、肖像には儀礼に合わせた表現が含まれます。持ち主が信長本人と確実に分かるか、現在の寸法から生前の身体を再現できるかも個別に確かめる必要があります。
したがって本記事では「170cm説の存在」を紹介しながら、「170cmであった」と断言しません。
フロイスは信長の身長をどう記した?
ルイス・フロイスは16世紀に日本を訪れ、信長に面会した宣教師です。フロイス『日本史』の人物描写について、歴史学者・濱田浩一郎氏はダイヤモンド・オンラインの2026年の解説で、信長を「中くらいの背丈」「華奢な体躯」と記したことを紹介しています。この点は信長の生前に接した観察者に由来する定性的な証言として、後世の身長推定とは証拠の性質が異なります。
ただし、フロイスの表現はセンチメートルによる測定結果ではありません。どの集団を基準に「中くらい」と判断したのかも明記されていないため、「当時の日本人平均より何cm高い」「170cm説を裏付けた」とまでは読み取れません。なお、ここで確認したのは『日本史』の邦訳についての研究者による紹介であり、ポルトガル語原文の該当箇所を直接校合した結果ではありません。
フロイスの記述と複数の信長肖像を比較した報道として、丹波新聞の柏原藩伝来画像に関する記事も参考になります。
当時の男性の平均身長と比べて大きかった?
大阪府立図書館の紹介文には、前述の書籍に関連して「当時の男性の平均身長は157cm」とも記されています。この157cmは、戦国時代のすべての地域・階層の男性について実測された確定平均ではありません。紹介文からは対象年代・地域・遺骨標本の規模などの算出条件を確認できないため、170cmとの差を「信長は同時代人より正確に13cm高かった」という史実として扱わない方が適切です。
歴史上の一個人の推定身長と、ある時代の男性集団の推定平均を比べるときは、二つの値の不確かさを合わせて考える必要があります。学校のレポートでも「170cmと推定する著作がある」と書く方が正確です。
信長は痩せ型だった?「華奢」という人物評の意味
フロイスが残した体格の印象から、信長を細身だったと紹介する解説があります。しかし、華奢という形容だけで筋肉量、体重、健康状態までは分かりません。
信長は乗馬や水練などの武芸に取り組んだと『信長公記』で語られますが、それをもって体格を現代的な数値に置き換えることもできません。「細身だったと記された」と「運動能力が低かった」は、まったく別の判断です。
肖像画を見れば背丈が分かる?
信長の著名な肖像画には、1583年の一周忌に制作された長興寺所蔵の像があります。東京文化財研究所の年紀資料データベースは制作年や画面寸法を記録しています。ただし画面の縦70cmは「絵の大きさ」であり、信長の身長ではありません。
肖像画は顔立ち・衣装・儀礼的な姿勢を知るうえで有益ですが、全身を正確な縮尺で再現した測定図とは限りません。肖像そのものの来歴は別テーマなので、ここでは身長推定との関係だけを押さえます。
甲冑や遺骨から身長は分かる?
鎧や兜の大きさから身長を考えることはできますが、まずその武具が本人の着用品と確定できる必要があります。また、甲冑は下に着る装束や動作のための余裕を考慮して作られるため、完成時の寸法が身体の寸法に直接一致するわけではありません。
遺骨からの身長推定には、身元の確定した骨と科学的な測定が必要です。信長の身長を確定できる骨格測定結果があると示す信頼できる根拠は、本記事の調査では確認できませんでした。
「信長は大男だった」は史実?後世のイメージとの違い
ドラマやゲームでは、主人公の威厳を表すため背を高く、体を大きく描くことがあります。こうした表現は作品の演出として楽しめますが、歴史上の身長を証明する資料ではありません。
反対に、フロイスが「中くらい」と書いたことだけで、信長が小柄だったとも決めつけられません。身長に関して最も確実に言えるのは、本人に近い人物の印象的な記録はあるが、現代のcmによる確定値はないという点です。
よくある質問
織田信長は170cmだったのですか?
170cmという現代の推定・紹介はあります。しかし当時の実測値と確認されたものではありません。
170cmという数字を紹介したのは誰ですか?
大阪府立図書館が紹介した篠田達明著『日本史有名人の身体測定』に、信長170cmという数字が挙げられています。ただし算定方法を直接照合していないため、確定した実測身長とは言えません。
信長の体重は何kgですか?
信長本人について確かな体重の実測記録は確認できません。体重の数字を断定することは避けます。
信長は秀吉や家康より背が高かった?
三人の身長を比較する現代の著作はありますが、全員の確定した実測値があるという意味ではありません。
学校のレポートに身長を書くなら?
「170cmと推定する著作があるが、フロイスは中くらいの背丈と記しており、正確な数値は分からない」と出典付きで説明すると誤解が少なくなります。
まとめ|信長の身長は断定できない
織田信長の身長には170cmという有名な推定がある一方、同時代の証言は数値ではなく「中くらいの背丈」です。170cm説の紹介と正確な身長の証明は区別してください。別の人物像や家紋まで身長の根拠に使わず、確認できた記録の範囲で判断することが歴史記事として重要です。
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参考資料・出典
- 大阪府立図書館「本蔵 – 知る司書ぞ知る(24号)」(2016年10月20日)――篠田達明の書籍を紹介し、信長170cm・当時の男性平均157cmという推定値を掲載。
- KADOKAWA『日本史有名人の身体測定』出版社情報、国立国会図書館サーチ書誌――篠田達明著、2016年刊の書籍の存在と刊行情報。身長算出過程の根拠ではない。
- ルイス・フロイス『日本史』松田毅一・川崎桃太訳――身長と体格に関する人物評の原典となる文献。本文の表現は研究者の紹介によって確認し、原語の直接照合は未実施。
- 濱田浩一郎「『豊臣兄弟』の主君・織田信長は冷酷な人間だったのか?」(ダイヤモンド・オンライン、2026年1月17日)――『フロイス日本史』の体格描写の紹介と解説。
- 丹波新聞「唯一の『髭のない信長』画像」――フロイスの人物評と柏原藩伝来肖像画。
- 東京文化財研究所「織田信長像(長興寺)」――肖像画の年紀・寸法。
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