織田信長の生涯は1534年から1582年まで。1582年の本能寺の変で、数え49歳で亡くなりました。 1560年の桶狭間の戦い、1567年の岐阜城への移転、1568年の上洛、1575年の長篠の戦い、1576年の安土城築城、そして1582年の本能寺の変が、特に大切な年号です。
この記事では、信長の生涯を西暦・和暦・年齢・出来事で一目で確認できる年表にし、年代別の詳しい年表と「なぜその年が重要なのか」を整理しました。学校の勉強で年号を覚えたい方も、人物の一生を順番に理解したい方も使える構成です。
織田信長の年表一覧【1534年~1582年・数え年つき】
まずは主な出来事を20項目に絞って一覧にしました。和暦と年齢も確認したい方は、この下の年代別年表をご覧ください。
| 西暦 | 数え年 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 1534年 | 1歳 | 尾張国に誕生。生誕地には勝幡城・那古野城などの説 |
| 1546年ごろ | 13歳 | 元服し「三郎信長」を名乗ったとされる |
| 1548~49年ごろ | 15歳~16歳 | 斎藤道三の娘・濃姫(帰蝶)との婚姻 |
| 1551~52年ごろ | 18歳~19歳 | 父・信秀の死後に家督を継ぐ。父の没年には諸説 |
| 1554~55年ごろ | 21歳~22歳 | 尾張の清須城を本拠とする |
| 1560年 | 27歳 | 桶狭間の戦いで今川義元を破る |
| 1563年 | 30歳 | 小牧山城を築き、清須から居城を移す |
| 1567年 | 34歳 | 斎藤龍興の稲葉山城を攻略し、岐阜へ移る |
| 1568年 | 35歳 | 足利義昭を奉じて京都へ進出 |
| 1570年 | 37歳 | 金ヶ崎から撤退。その後、姉川の戦いに勝利 |
| 1571年 | 38歳 | 比叡山延暦寺の焼き討ち |
| 1573年 | 40歳 | 足利義昭を追放。浅井・朝倉氏も滅亡 |
| 1574年 | 41歳 | 長島一向一揆を鎮圧 |
| 1575年 | 42歳 | 長篠・設楽原の戦いに勝利。嫡男・信忠へ家督を譲る |
| 1576年 | 43歳 | 安土城の築城を開始 |
| 1577年 | 44歳 | 安土城下に楽市の掟書を発給 |
| 1579年 | 46歳 | 安土城天主が完成し、信長が移り住む |
| 1580年 | 47歳 | 石山本願寺と和睦し、石山合戦が終結 |
| 1581年 | 48歳 | 京都で大規模な御馬揃えを催す |
| 1582年 | 49歳 | 武田氏を滅ぼす。同年、本能寺の変で死去 |
年齢の見方:ここにある「27歳」は、1534年を1歳として数える数え年です。現代の満年齢とは違います。また、父・信秀の死など資料によって年号が異なる事項は「1551~52年」のようにまとめています。
年齢はすべて数え年です。複数の年代説がある出来事は範囲で示しています。
年代別・織田信長の詳しい年表【和暦と数え年】
以下は主要な26の出来事を、背景とともに年代順で解説したものです。同じ年に重要な事件が複数起こった場合は分けて掲載しました。合戦や城そのものの詳しい解説は、各項目の関連記事へ案内しています。
1534~1559年|誕生から尾張統一まで
初めから全国を治める大名だったわけではありません。父の地盤を受け継いだ後、尾張の織田諸家や弟との争いを乗り越えます。
尾張で誕生
父は織田信秀、母は土田御前と伝わります。幼名は吉法師。生まれた城には勝幡城説や那古野城説があり、出生地は一つに固定しません。
元服して信長を名乗る
十代前半のころに元服し、「三郎信長」を名乗ったとする年表があります。元服の年は伝記で扱いが異なるため、ここでは1546年ごろとします。
斎藤道三の娘と婚姻
美濃の斎藤道三の娘・濃姫(帰蝶)と結婚したとされます。婚姻は織田家と斎藤家との外交にも関わりました。
父・信秀が死去し家督を継ぐ
父の没年には1551年説と1552年説があり、現在の年表でも表記が分かれています。相続後も尾張全体の支配がすぐに安定したわけではありません。
清須城へ本拠を移す
守護代家との争いを経て清須を拠点とします。名古屋城公式資料は1555年と記し、小牧市の資料には1554年とする説明もあります。
弟・信行と稲生の戦い
織田家内部の主導権をめぐり、信長は弟・信行(信勝)と対立。尾張の統一は一族の争いを解決することから始まりました。
弟・信行を討つ
弟との対立を制したことで、信長が当主としての基盤を強めたと考えられます。兄弟の詳細な関係は家系図記事で扱います。
尾張の大部分を掌握
岩倉方の織田氏を降して、尾張の統一をほぼ成し遂げます。翌年の桶狭間の勝利につながる力を整えました。
1560~1567年|桶狭間から岐阜城へ
今川氏との戦いに勝ち、美濃へ向かう足場を整えます。清須→小牧山→岐阜という本拠の移動で、戦略の変化が見えてきます。
桶狭間の戦いで今川義元を破る
尾張に進んだ今川義元の軍と戦い、義元が討死。織田軍が勝利して周辺勢力との関係が大きく変化しました。「三千丁の鉄砲による一斉射撃」などを事実として断定しません。
松平元康(後の徳川家康)と同盟
桶狭間後、三河の松平元康との関係が変化し、互いに協力する体制が整いました。西の美濃攻略に集中できる条件が生まれます。
小牧山城を築いて移る
信長は清須から小牧山へ移り、城下町も整えました。小牧市の発掘・歴史資料でも1563年の築城が確認されています。
稲葉山城を攻略して岐阜へ
斎藤龍興を追放し、美濃の稲葉山城を新たな本拠としました。「岐阜」の地名と、畿内に進出する広域的な政治の舞台が結び付きます。
1568~1573年|上洛・将軍との対立・浅井朝倉の滅亡
京都の政治に関与する一方、浅井・朝倉氏や寺院勢力などと戦います。領土拡大と同時に、政権をめぐる対立が深まった時期です。
足利義昭を奉じて上洛
信長が足利義昭を支えて京都に入り、義昭は室町幕府15代将軍となりました。信長がこの時点で征夷大将軍に就いたわけではありません。
金ヶ崎から撤退し、姉川の戦いへ
越前・朝倉氏への出兵では浅井長政の離反が起こり、信長は撤退。その後の姉川の戦いでは、織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍を破りました。
比叡山延暦寺を焼き討ち
浅井・朝倉氏と関わる延暦寺を攻め、伽藍の大半が兵火で失われました。仏教との関係をこの一件だけで説明するのではなく、寺院も政治・軍事勢力だった時代背景を踏まえます。
足利義昭を追放し、浅井・朝倉氏を滅ぼす
足利義昭を京都から追放し、室町幕府の京都における政治体制が終わりました。同じ年に朝倉義景・浅井長政も滅びます。途中で元号が「元亀」から「天正」に変わりました。
1574~1582年|安土城築城・全国への進出・本能寺の変
軍事だけでなく城下町整備や家督の移譲も進めました。安土を新しい拠点としたものの、1582年に本能寺で生涯を終えます。
長島一向一揆を鎮圧
長く織田軍に抵抗した長島一向一揆を鎮圧しました。この戦いは苛烈な経過を伴い、勢力拡大には大きな犠牲もありました。
長篠・設楽原の戦いに勝利
織田・徳川連合軍が武田勝頼軍を破りました。鉄砲が重要な役割を果たしましたが、整然とした「三段撃ち」が史実として完全に確定しているという説明には注意が必要です。
嫡男・信忠へ家督を譲る
信長は織田家の家督を嫡男・信忠へ譲り、自身は引き続き広域的な政務や軍事に関与しました。1576年以後の岐阜城主を確認する際に重要です。
近江で安土城の築城を始める
安土城は1576年に着工。信長は新しい拠点の整備を進めました。天主が完成するのは3年後の1579年なので、着工と完成を分けて覚えます。
安土城下に楽市の掟書を出す
商人の流入・町の秩序づくりのため、安土山下町中掟書を発給。文化財として残る十三箇条の文書は、経済政策を考える一次資料です。
安土城の天主が完成
滋賀県の資料では築城開始から3年後の1579年に天主が完成し、信長が移り住んだとされます。1576年と1579年がどちらも安土城の年号として出てくるのはこのためです。
石山本願寺と和睦し石山合戦が終結
石山本願寺側との和睦が進み、約10年に及んだ抗争が終結しました。すべての敵対勢力がこの時点でなくなったわけではありません。
京都で御馬揃えを催す
京都で大規模な軍勢・騎馬の披露を行い、信長の軍事力や権威を示しました。安土を拠点としながら京の政治にも大きく関わっていた時期です。
武田勝頼が滅び、甲斐武田氏が終焉
信長の勢力は東へも拡大し、徳川家康らと協力して武田氏を滅ぼします。しかし勢力拡大から間もなく本能寺の変が起こりました。
本能寺の変で亡くなる
旧暦6月2日、京都の本能寺で明智光秀の軍勢に襲われて死去。数え49歳。嫡男・信忠も同日に二条新御所で亡くなりました。
清須→小牧山→岐阜→安土|本拠地の移動でも年表が分かる
信長の拠点は、勢力の拡大とともに西・北へ変化しました。尾張から美濃、さらに近江へという移動を追うと、戦いだけでなく政治や城下町の整備まで理解しやすくなります。
ここで覚えたいのは、1563年に小牧山、1567年に岐阜、1576年に安土です。安土では築城開始が1576年、天主完成が1579年です。岐阜の拠点は1575年の家督移譲と関係があるため、信長と信忠の城主期間も同一ではありません。
年表で混同しやすい年代と、正しい読み方
父・織田信秀が亡くなったのは1551年?1552年?
信長の父・信秀の死は、1551年(天文20年)と書く年表もあれば、1552年(天文21年)とする説明もあります。越前町織田文化歴史館は1552年説に言及しながら、没年には諸説があると整理しています。したがって本記事では「1551~52年ごろ」とし、どちらかを無条件に断定しません。
清須城へ移ったのは1554年?1555年?
名古屋城公式の那古野城解説では清須への移転を1555年とし、小牧市の史跡小牧山年表には同じ出来事を1555年として記した箇所と、1554年として記した関連資料があります。現時点の説明では1555年を主に使い、資料の表記違いを併記しました。
1573年の和暦が「元亀4年」と「天正元年」に分かれる理由
1573年は途中で改元されたため、信長の活動が「元亀4年」と記録されたり「天正元年」と記録されたりします。西暦では同じ1573年ですが、旧暦の日付や当時使われた元号が違う点に注意してください。
安土城は1576年と1579年、どちらが正しい?
どちらも意味が違うだけで間違いではありません。滋賀県の安土城史跡解説によると、1576年が築城開始、1579年が天主完成です。年表で「安土城完成1576年」とだけ書かれている場合は、どの施設の完成を意味しているかを確認しましょう。
長篠の戦いの「三段撃ち」はそのまま史実?
1575年に信長・家康の連合軍が武田勝頼軍を破ったことは重要な出来事です。ただし、教科書的に知られる「鉄砲の三段撃ち」が実際にどのように行われたかは議論があるため、「三段撃ちで勝った」と方法まで決めつけて暗記しないのが適切です。
覚えたい重要年号5つ|信長の生涯を短く復習
- 1534年:織田信長が生まれる。ここから数え年が始まる。
- 1560年:桶狭間の戦いで今川義元を破る。
- 1567年:美濃へ進出し、岐阜城を本拠にする。
- 1575年:長篠の戦いで武田軍に勝利する。
- 1582年:本能寺の変で数え49歳の生涯を終える。
5つの年号が頭に入ったら、1568年(上洛)→1573年(義昭追放・浅井朝倉滅亡)→1576年(安土築城開始)→1579年(安土天主完成)を間に加えると、信長の勢力の広がりが見えてきます。
織田信長の年表についてよくある質問
織田信長は何年に生まれ、何年に亡くなった?
1534年(天文3年)に生まれ、1582年(天正10年)に京都の本能寺の変で亡くなりました。数え49歳です。
織田信長が桶狭間の戦いで勝ったのは何歳?
1560年、数え27歳の時です。今川義元を破ったこの勝利で、尾張周辺の勢力関係が大きく変わりました。
「織田信長 年表」の年齢は満年齢ですか?
本記事では数え年を使っています。1534年を1歳とし、1560年は27歳、1582年は49歳です。満年齢を使う他の年表とそのまま数字を比べないようにしましょう。
織田信長は何年に天下統一したの?
信長が日本全国を統一した年はありません。各地への勢力拡大を進めていましたが、1582年に本能寺の変で亡くなったため、全国統一は果たせませんでした。
1573年は室町幕府が滅亡した年?
1573年に信長が足利義昭を京都から追放し、室町幕府の京都における政治体制が終わりました。ただし、義昭本人はその後も生存し、将軍としての立場を維持した時期があるため、政治制度と本人の経歴は分けて考えられます。
織田信長が安土城を築いたのは何年?
1576年に築城を始め、1579年に天主が完成しました。この二つの年号を分けて覚えると、年表を正確に読めます。
本能寺の変は何年?信長は何歳?
1582年(天正10年)6月2日〈旧暦〉、信長は本能寺で明智光秀の軍勢に襲われて亡くなりました。数え49歳です。最期の詳しい状況は織田信長の死因と最期で解説しています。
学校のテストには年表のどの出来事が出やすい?
信長の生涯を押さえるうえでは、桶狭間の戦い(1560年)、岐阜城(1567年)、上洛(1568年)、足利義昭追放(1573年)、長篠の戦い(1575年)、安土城築城(1576年)、本能寺の変(1582年)が基本となります。
関連記事|織田信長の合戦・家族・人物像を深く知る
- 織田信長とは? 生涯・戦歴の総合解説:年表に登場する出来事を全体像から理解する。
- 桶狭間の戦い:1560年の戦いと勝利の意味を詳しく読む。
- 姉川の戦い:1570年の浅井・朝倉連合軍との戦いを調べる。
- 安土城:1576年の築城開始と1579年の天主完成を確認する。
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この記事で参照した主な資料13件
本文の年代は自治体・文化財・博物館の資料を優先して照合しました。父の没年や清須への移転時期など記述の異なる出来事は、記事内で分けて説明しています。
- 越前町織田文化歴史館「織田一族」:信秀の没年説、尾張統一、信長の登場。
- 名古屋城公式「前史・那古野城跡」:那古野城から清須城への移動。
- 小牧市「史跡小牧山歴史年表」:清須・小牧山・岐阜・安土への本拠移動。
- 岐阜市「岐阜城の歴代城主」:信長と嫡男・信忠の城主時代。
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