清須城は、尾張国清須に置かれた城で、戦国時代には尾張の政治・経済の中心として重要な役割を持ちました。清須市によると、応永12年(1405年)に下津城の別郭として築かれたのが始まりといわれています。
清須城の基本情報
きよすじょう
復元・再建建築あり
尾張の中心地・清須に置かれた城。1555年に織田信長が入城し、1560年の桶狭間の戦いではここから出陣した。
織田信長の尾張統一期の本拠であり、尾張の政治・経済の中心地に位置した重要拠点。
清洲城
尾張の交通の要衝・清須に位置し、守護所移転後は政治・経済・司法の中心地として発展した。
所在地・比定地の補足
戦国期の城域と現在の復元施設の位置・姿は同一ではないため、史跡と復元施設を区別して扱う。
築城・廃城に関する異説
創建事情は清須市公式説明でも「始まりといわれています」とされ、伝承・研究上の表現に留意する。
情報確認日:
2026-09-18
清須城の歴代城主・支配勢力
城主や支配勢力の移り変わりを、登録されている期間に沿って時系列でたどります。
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01 1555年〜1563年
清須城の築城から現在までの変遷
築城・改修・攻城・城主交代・落城・廃城など、城そのものの歴史を時系列でたどります。
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01 1405年
清須城の始まり
下津城の別郭として築かれたのが始まりとされる。 -
02 1478年
守護所が清須へ移転
清須が尾張の中心地として発展する。 -
03 1555年
織田信長が入城
信長が那古野城から清須城へ移る。 -
04 1560年
桶狭間の戦いへ出陣
信長が清須城から出陣し、今川義元を破る。
清須城に関係する武将・人物
築城者・城主・攻城側・滞在者など、この城との関係が登録されている人物を横断してたどれます。
主な城主
この城の代表的な城主・領主として登録されている人物。
織田信長
※ 同一人物が複数の関係を持つ場合は1枚のカードに統合します。「関係武将・人物」には攻城側・滞在者などを含みますが、具体的な関係は登録済みデータの範囲に基づきます。
戦国人物一覧を見る →清須城に関係する合戦・事件
攻城・籠城・政変・本拠移転など、この城との関係が登録されている合戦・事件を年代順にたどれます。
桶狭間の戦い
清須会議
※ 関連する出来事には、城内で直接戦闘が行われたものだけでなく、籠城・進軍・政変・本拠移転など、この城との関係が登録されている出来事を含みます。
合戦・事件一覧を見る →清須城と関係する城・拠点
本城・支城・前身城・後継城・周辺防衛拠点など、登録されている城同士の関係を横断してたどれます。
大高城
小牧山城
※ 関係種別は登録済みデータに基づきます。詳細種別が未登録の城は「関連城・拠点」として表示します。
城・拠点一覧を見る →織田信長は弘治元年(1555年)に那古野城から清須城へ移り、ここを本拠として尾張統一を進めました。1560年の桶狭間の戦いでは清須城から出陣しています。信長が尾張の地域大名から外へ勢力を広げる直前の本拠として、清須城は非常に重要です。
清須城とは?まず押さえたいポイント
- 清須市公式では1405年に下津城の別郭として築かれたのが始まりとされる
- 1478年に守護所が清須へ移り、尾張の中心地として発展した
- 1555年、織田信長が那古野城から移った
- 信長は清須城を本拠に尾張統一を進めた
- 1560年、桶狭間の戦いへ清須城から出陣した
- 1563年、信長は小牧山城へ本拠を移した
- 1582年、本能寺の変後には清須会議の舞台となった
- 現在の復元施設と戦国期の城の姿・位置は同一ではない
清須城の始まりは1405年?
清須市は、応永12年(1405年)に下津城の別郭として築かれたのが清須城の始まりと説明しています。
ただし、この創建事情は「始まりといわれています」という表現で紹介されており、後世の研究を含む伝承的な側面もあります。確定事項と同じ強さで断定しないことが大切です。
1478年、守護所が清須へ
1478年、尾張の守護所が清須へ移ったことで、清須は政治・経済・司法の中心地として発展しました。
城だけではなく町全体が尾張支配の中心になったことが、その後の信長時代にも大きくつながります。
1555年、織田信長が清須城へ入る
信長は1555年、那古野城から清須城へ本拠を移しました。
尾張国内には織田一族や有力勢力が複数存在していました。信長にとって清須城は、尾張の支配を固めるための政治・軍事の中心となります。
清須城は信長の尾張統一拠点
清須城時代の信長は、まだ美濃・畿内へ広大な領土を持つ大名ではありません。
国内勢力をまとめ、周辺大名との関係を築きながら、尾張を基盤として力を伸ばしていた段階です。後の全国規模の勢力拡大も、まず清須を中心とした尾張支配から始まりました。
1560年、桶狭間の戦いへ出陣
今川義元が尾張方面へ進軍した1560年、信長は清須城から出陣しました。
桶狭間の戦いで義元が討死し、織田方が勝利します。清須城は、信長の人生を大きく変えた合戦の出発点でもありました。
大高城と清須城をセットで見る
桶狭間前、大高城は今川方の重要拠点でした。
清須城が織田信長の出陣拠点、大高城が今川方の前線拠点という関係を見ると、桶狭間の戦いが複数の城をめぐる軍事作戦だったことが分かります。
1563年、小牧山城へ本拠移転
信長は1563年、清須城から小牧山城へ本拠を移しました。
この移転は美濃攻略と深く関係します。清須→小牧山→岐阜という本拠移動を追うことで、信長の勢力圏が北へ広がる過程が見えてきます。
1582年、清須会議の舞台
本能寺の変で織田信長と嫡男・信忠が相次いで亡くなると、織田家の後継と領地配分を決める必要が生じました。
その協議の舞台となったのが清須城です。信長の旧本拠であり、織田家にとって象徴的な場所だった清須で、信長死後の政治再編が話し合われました。
清須城は「信長の城」だけではない
清須城は信長入城以前から尾張の中心地として重要でした。
そして信長が小牧山へ移った後も、1582年の清須会議など織田家の政治に関わる舞台として歴史に残ります。
現在の清洲城は当時の建物?
現在見られる清洲城の建物は、戦国期の天守がそのまま残っているものではありません。
清須市の案内でも、戦国期の城域・姿と現在の復元施設は区別して理解する必要があります。現在の建物は歴史を伝えるための復元的施設です。
清須城が重要な理由
清須城の価値は、信長が住んだ城という一点だけではありません。
尾張の政治中心、信長の尾張統一、桶狭間への出陣、本拠移転、清須会議まで、織田家の台頭と信長死後の再編を一つの城で追えることが大きな特徴です。
清須城についてよくある質問
織田信長はいつ清須城へ入りましたか?
1555年です。
桶狭間の戦いでは清須城から出陣した?
はい。1560年、信長は清須城から出陣しました。
清須城の次の信長の本拠は?
1563年に小牧山城へ移りました。
現在の清洲城は当時の天守ですか?
いいえ。現在の施設は戦国期の建物そのものではありません。
清須城の主要出典・参考資料
城・拠点情報の確認に使用した主要な史料・公的資料・研究資料などを掲載します。
清洲城
名古屋城の歴史 年表
研究・出典確認用データ
表示値は戦国人に登録されたデータです。研究利用では、各出典の原資料・刊本・論文等をあわせて確認してください。
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織田信長
1534年生まれ。尾張を基盤に勢力を拡大し、桶狭間の戦い、美濃攻略、上洛、安土城築城などを経て天下統一を進めた。1582年、本能寺の変で没した。
詳しく見る →小牧山城
1563年に織田信長が築城し、清須城から本拠を移した城。美濃攻略の拠点となり、1567年に岐阜へ移るまで使用した。
詳しく見る →大高城
尾張国大高にあった城。1560年の桶狭間の戦いでは今川方の支配下にあり、松平元康による兵糧入れで知られる。
詳しく見る →桶狭間の戦い
永禄3年(1560年)、尾張へ進軍した今川義元軍と織田信長軍が衝突し、義元が討死した合戦。
詳しく見る →清須会議
1582年、本能寺の変後に清須城で開かれた会議。織田信長の後継と領地配分をめぐり、柴田勝家・羽柴秀吉ら重臣が協議した。
詳しく見る →岐阜城
旧称・稲葉山城。1567年に織田信長が攻略し、「岐阜城」と改めて天下統一の拠点とした。
詳しく見る →清須城を起点に、もう一歩調べる
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