安土城は、織田信長が天正4年(1576年)に近江国安土で築城を開始した城です。天正7年(1579年)には天主が完成し、信長が移り住みました。
安土城の基本情報
あづちじょう
城跡・遺構中心
織田信長が天正4年(1576年)に築城を開始し、天正7年(1579年)に天主が完成して移り住んだ城。天下統一の拠点として築かれた。
岐阜から本拠を移した織田信長の新たな政治・軍事拠点で、織田政権を象徴する城。
国指定特別史跡
天下統一の拠点として築かれ、天正7年(1579年)に天主が完成。城下町整備も進められた。
石垣・郭跡などが残り、特別史跡として調査・整備が進められている。
築城・廃城に関する異説
1582年、本能寺の変後に天主・本丸が焼失した。焼失の直接原因には不明点があるため、断定しない。
情報確認日:
2026-09-18
安土城の歴代城主・支配勢力
城主や支配勢力の移り変わりを、登録されている期間に沿って時系列でたどります。
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01 1579年〜1582年
安土城の築城から現在までの変遷
築城・改修・攻城・城主交代・落城・廃城など、城そのものの歴史を時系列でたどります。
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01 1576年
築城開始
織田信長が安土山で築城を開始する。 -
02 1579年
天主完成・信長入城
天主が完成し、信長が移り住む。 -
03 1582年
本能寺の変
信長自害後、安土城は明智光秀の手に渡る。 -
04 1582年
天主・本丸焼失
本能寺の変後の動乱の中で天主・本丸が焼失した。 -
05 1585年
廃城
安土城は役割を終え、廃城となる。
安土城に関係する武将・人物
築城者・城主・攻城側・滞在者など、この城との関係が登録されている人物を横断してたどれます。
主な城主
この城の代表的な城主・領主として登録されている人物。
織田信長
※ 同一人物が複数の関係を持つ場合は1枚のカードに統合します。「関係武将・人物」には攻城側・滞在者などを含みますが、具体的な関係は登録済みデータの範囲に基づきます。
戦国人物一覧を見る →安土城に関係する合戦・事件
攻城・籠城・政変・本拠移転など、この城との関係が登録されている合戦・事件を年代順にたどれます。
本能寺の変
※ 関連する出来事には、城内で直接戦闘が行われたものだけでなく、籠城・進軍・政変・本拠移転など、この城との関係が登録されている出来事を含みます。
合戦・事件一覧を見る →安土城と関係する城・拠点
本城・支城・前身城・後継城・周辺防衛拠点など、登録されている城同士の関係を横断してたどれます。
岐阜城
※ 関係種別は登録済みデータに基づきます。詳細種別が未登録の城は「関連城・拠点」として表示します。
城・拠点一覧を見る →安土城は豪華な天主で有名ですが、重要なのは建物の派手さだけではありません。岐阜から本拠を移した信長が、天下統一を進める政治・軍事・交通の中心として築いた織田政権の象徴でした。
安土城とは?まず押さえたいポイント
- 1576年、織田信長が築城を開始した
- 1579年に天主が完成し、信長が入城した
- 岐阜城に代わる新たな本拠
- 天下統一を進める政治・軍事拠点だった
- 城下町整備も進められた
- 1582年、本能寺の変後に天主・本丸が焼失した
- 焼失の直接原因は確定していない
- 1585年に廃城となった
- 現在は国指定特別史跡
なぜ信長は岐阜から安土へ移ったのか
信長は岐阜城を本拠に上洛・畿内進出を進めていました。
その後、政治の重心が京都・近江方面へ移る中で、琵琶湖に近い安土に新しい本拠を築きます。岐阜より畿内へ近い立地は、広域支配を進めるうえで大きな意味を持ちました。
1576年、築城開始
滋賀県の公式資料では、安土城は天正4年(1576年)に築城が始まったことが確認できます。
信長の権力が尾張・美濃を越えて畿内へ広がった時期に、新たな政権拠点として建設されました。
1579年、天主完成
天正7年(1579年)、安土城の天主が完成し、信長が移り住みました。
高層の天主は安土城を象徴する存在ですが、現在その姿を直接確認できる建物は残っていません。外観・内部構成の細部には復元案や研究上の議論があります。
安土城はなぜ「天下統一の拠点」なのか
安土城は一地域を守る山城ではなく、信長が広い支配地域を統括するための本拠でした。
近江は京都と東国を結ぶ交通上の重要地域で、琵琶湖を利用した物流にも関係します。政治・軍事・交通の条件が重なる場所でした。
城だけでなく城下町も整備
信長は安土城だけではなく、その周辺に城下町を整備しました。
家臣・商人・職人・物資を集める城下町は、広域政権の運営に欠かせません。安土城は山上の天主だけで語るより、町を含めた政治都市として見る必要があります。
岐阜城との違い
岐阜城は信長が美濃を攻略し、上洛へ進む時期の本拠でした。
安土城はそれより後、畿内で大きな政治力を持ち、さらに広域の支配を進める時期の本拠です。本拠移動から信長政権の成長を見ることができます。
1582年、本能寺の変
1582年6月、京都の本能寺で信長が明智光秀の襲撃を受けて最期を迎えました。
信長の死によって、安土城の政治的な意味も急速に変化します。
本能寺の変後、安土城は明智方の手へ
信長死後、安土城は明智光秀方の支配下に入りました。
しかし光秀も山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、本能寺後の政治秩序は短期間で大きく変化しました。
天主・本丸はなぜ焼けた?
本能寺の変後の混乱の中で、安土城の天主・本丸は焼失しました。
ただし、誰が何のために火を放ったのかなど、焼失の直接原因には不明点があります。特定人物の放火と断定せず、「本能寺後の動乱の中で焼失した」という確認できる範囲を基準にする必要があります。
1585年、廃城
安土城は1585年に廃城となりました。
築城開始から約9年、天主完成から約6年という短い期間で政治拠点としての役割を終えています。
短命でも戦国史を代表する城
安土城が本拠として使われた期間は長くありません。
それでも信長政権の象徴として後世に大きな影響を与え、「安土桃山時代」という時代名にも安土の名が残ります。
現在残る遺構
現在の安土城跡には石垣、郭跡などが残っています。
建物そのものは失われていますが、発掘調査・整備によって城の構造を考える手がかりが蓄積されています。
国指定特別史跡
安土城跡は国指定特別史跡として保存・調査が進められています。
「信長の天主」というイメージだけでなく、石垣・郭・城下町を含めた歴史空間として見ることが重要です。
安土城が重要な理由
安土城は豪華な天主だけが価値なのではありません。
岐阜から安土への本拠移動、天下統一へ向かう政権運営、本能寺の変後の急速な崩壊まで、織田信長政権の最盛期と終焉を象徴する城だからこそ重要です。
安土城についてよくある質問
安土城を築いたのは誰ですか?
織田信長です。
いつ築城が始まりましたか?
1576年です。
天主はいつ完成しましたか?
1579年です。
安土城はなぜ焼けたのですか?
1582年、本能寺の変後の混乱の中で天主・本丸が焼失しましたが、直接原因には不明点があります。
安土城の主要出典・参考資料
城・拠点情報の確認に使用した主要な史料・公的資料・研究資料などを掲載します。
今年は築城開始から450年!織田信長が天下統一の拠点とした安土城
特別史跡安土城跡の調査と整備
研究・出典確認用データ
表示値は戦国人に登録されたデータです。研究利用では、各出典の原資料・刊本・論文等をあわせて確認してください。
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織田信長
1534年生まれ。尾張を基盤に勢力を拡大し、桶狭間の戦い、美濃攻略、上洛、安土城築城などを経て天下統一を進めた。1582年、本能寺の変で没した。
詳しく見る →岐阜城
旧称・稲葉山城。1567年に織田信長が攻略し、「岐阜城」と改めて天下統一の拠点とした。
詳しく見る →本能寺の変
天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が京都の本能寺に滞在していた織田信長を襲撃し、信長が自害した事件。
詳しく見る →賤ヶ岳の戦い
天正11年(1583年)、本能寺の変後の織田家中の主導権をめぐり、羽柴秀吉と柴田勝家が近江・賤ヶ岳周辺で戦った合戦。
詳しく見る →長浜城
琵琶湖岸にあった城。羽柴秀吉が入城して今浜を長浜と改め、城下町を整備して数年間居城した。
詳しく見る →刀根坂の戦い
1573年8月、浅井氏救援から撤退する朝倉義景軍を織田信長軍が近江から敦賀へ至る刀根坂で追撃し、朝倉軍が大敗した戦い。
詳しく見る →安土城を起点に、もう一歩調べる
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