山崎の戦い

山崎の戦いは、天正10年(1582年)6月13日、本能寺の変からわずか11日後に、明智光秀軍と羽柴秀吉軍が山崎周辺で戦った合戦です。戦いは秀吉方の勝利に終わり、光秀は勝龍寺城へ退却しました。

合戦・事件データ

山崎の戦い

やまざきのたたかい

開催時期

天正10年6月13日(1582年)

天正10年(1582年)6月13日、本能寺の変後に明智光秀と羽柴秀吉が山崎周辺で戦った合戦。光秀は敗れて勝龍寺城へ退却した。

別称・異称


山崎合戦

主な場所
山崎〜勝龍寺城周辺
現在地
京都府大山崎町・長岡京市周辺
旧国
地方
出来事規模
大規模
戦闘
軍事的な戦闘あり
勝敗・決着

羽柴秀吉方の勝利・明智光秀敗走

関係する家・勢力

場所に関する補足
実際の戦場は山崎から勝龍寺城周辺一帯に広がっていたとされる。
異説・史料上の注意
細かな布陣・兵力・戦闘経過には史料差があるため、確定できる経過と推定を分けて扱う。


情報確認日


2026年9月18日

原因 → → 結果 → 影響

山崎の戦いはなぜ起き、何を変えたのか

背景・出来事・結果・その後への影響を、一連の流れとして整理します。

01
原因

なぜ起きたのか

本能寺の変で織田信長を討った明智光秀に対し、中国地方から急ぎ戻った羽柴秀吉が畿内で対峙した。
02

山崎の戦い

時期 天正10年6月13日(1582年)
場所 山崎〜勝龍寺城周辺
ここで戦況・政治状況が大きく動きました。
03
結果

どう終わったのか

羽柴秀吉方の勝利・明智光秀敗走
羽柴秀吉方が勝利し、明智光秀は勝龍寺城へ退却した。
04
影響

その後どう変わったのか

本能寺の変後の政局で秀吉が主導権を強める大きな転機となった。
※ 原因や歴史的影響は複数の要因から成る場合があります。ここでは登録済みデータに基づき、主要な流れを整理しています。

この合戦は「光秀の三日天下を終わらせた戦い」として有名ですが、より重要なのは、本能寺の変後の政治的空白の中で、秀吉が軍事的勝利を一気に政治的主導権へ変える転機となったことです。

山崎の戦いとは?まず押さえたいポイント

  • 1582年6月13日、本能寺の変から11日後に行われた
  • 明智光秀軍と羽柴秀吉軍が戦った
  • 戦場は山崎から勝龍寺城周辺の広い範囲に及んだ
  • 秀吉方が勝利した
  • 光秀は勝龍寺城へ退却した
  • その後、光秀は坂本城を目指す途中で最期を迎えたとされる
  • 秀吉が織田家中で主導権を強める大きな転機となった

山崎の戦いの陣営・参加勢力

登録済みの陣営データをもとに、主な勢力・指揮者・参加人物を整理しています。

羽柴方

主な家・勢力
織田家羽柴・豊臣方
総大将・主な指揮者
総大将羽柴秀吉史料上確認
この陣営の結果
勝利

明智方

主な家・勢力
明智家
総大将・主な指揮者
総大将明智光秀史料上確認
この陣営の結果
敗北・勝龍寺城へ退却
陣営区分・所属は史料や研究上の整理によって異なる場合があります。異説がある項目は個別に表示します。
合戦年表

山崎の戦いの経過

開戦前から決着まで、登録されている出来事を時系列でたどります。

  1. 6月2日 開戦前 史料上確認

    本能寺の変

    明智光秀が織田信長を討つ。
  2. 6月13日 開戦 史料上確認

    山崎で両軍が激突

    明智光秀軍と羽柴秀吉軍が山崎周辺で戦う。
  3. 6月13日夕刻 転機 史料上確認

    明智軍が敗北

    光秀は勝龍寺城へ退却する。
  4. 同夜 戦後 史料上確認

    光秀が勝龍寺城を離れる

    坂本城を目指して城を出た後、帰途に最期を迎えたとされる。
※ 年月日や出来事の順序に諸説がある場合は、各項目に史料上の状態を表示しています。
転機

山崎の戦いの勝敗を分けた転機

戦況が大きく動いた局面を、「何が起きたか」「なぜ重要だったか」「その後どう変わったか」に分けて整理します。

01
勝敗を左右した重要局面 史料上確認

明智軍の敗北

羽柴秀吉軍との戦いで明智軍が敗れ、光秀は勝龍寺城へ退却した。
戦況への影響
本能寺の変後の主導権争いで秀吉が大きく前進した。
※ 「転機」は戦況理解のための整理です。因果関係や重要度について研究上の見解が分かれる場合は、その旨を各項目に表示します。

山崎の戦いに関係する城・拠点

この合戦・事件との関係が登録されている城・砦・館などの拠点をたどれます。

勝龍寺城

しょうりゅうじじょう
城跡・遺構中心
場所山城国乙訓郡勝龍寺
築城中世以来の城を、元亀2年(1571年)に細川藤孝が改修
京都防衛の要衝に位置する城。1571年に細川藤孝が信長の命で改修し、1582年の山崎の戦いでは明智光秀が拠点として使用した。

山崎城

やまざきじょう
城跡・遺構中心
場所山城国乙訓郡大山崎・天王山
築城天正10年(1582年)、山崎の戦い直後に羽柴秀吉が築城
天王山山頂に残る山城。現在残る城跡は1582年の山崎の戦い直後に羽柴秀吉が築いたとされる。

※ 関係城には、直接戦闘が行われた城だけでなく、進軍・籠城・本拠・後方拠点など、この出来事との関係が登録された拠点を含みます。

城・拠点一覧を見る →

山崎の戦いは本能寺の変の続き

6月2日、明智光秀は本能寺で織田信長を討ち、嫡男・信忠も同日に最期を迎えました。

これによって織田家の政治秩序は大きく崩れます。山崎の戦いは、その空白を誰が埋めるかを決める最初の大きな軍事衝突でした。

秀吉はなぜすぐ戻れた?

本能寺の変当時、秀吉は中国地方で毛利氏と対陣していました。

信長の死を知ると和睦を進め、畿内へ急いで戻ります。この一連の帰還は後に「中国大返し」と呼ばれます。

中国大返しの本当の重要性

中国大返しは「ものすごい速さで走った」という逸話だけで見ると本質を外します。

重要なのは、秀吉が他の織田家臣より早く光秀と戦える位置まで戻り、信長の仇討ちという政治的立場を確保したことです。

光秀は京都周辺を掌握していた

本能寺の変後、光秀は京都周辺の掌握を進めました。

ただし、織田家の有力家臣や姻戚関係にあった細川家などを十分に味方へ引き込むことはできませんでした。

勝龍寺城は光秀側の重要拠点

山崎の戦いで光秀方の重要拠点となったのが勝龍寺城です。

長岡京市は、光秀がこの城を拠点に秀吉軍を迎え撃ち、敗北後に退却したと説明しています。

戦場は天王山だけではない

山崎の戦いは「天王山を取った方が勝った」と語られることがあります。

しかし実際の戦場は山崎から勝龍寺城周辺へ広く展開しており、細かな布陣・兵力・戦闘経過には史料差があります。天王山だけで戦い全体を説明するのは単純化しすぎです。

1582年6月13日、両軍が激突

本能寺の変から11日後、秀吉軍と光秀軍は山崎周辺で戦いました。

戦闘の結果、明智軍は敗れ、光秀は勝龍寺城へ退却します。

光秀は勝龍寺城で亡くなった?

いいえ。光秀は山崎で敗れた後、勝龍寺城へ退却しましたが、そこで最期を迎えたわけではありません。

その後、坂本城を目指して城を離れ、帰途で最期を迎えたとされます。最期の具体的な場所や状況には伝承も含まれます。

「三日天下」は文字通り3日?

光秀の短い政権を「三日天下」と呼ぶことがあります。

実際に三日間だけ全国を統治したという意味ではなく、本能寺の変から山崎敗戦までの短さを象徴する後世表現です。

山崎城は戦いの後に築かれた

山崎の戦い後、秀吉は天王山山頂に山崎城を築きました。

この城は戦い前の陣城ではなく、勝者となった秀吉がその後の支配を進めるための拠点です。

秀吉はこの勝利で何を得た?

秀吉は「信長を討った光秀を破った人物」という大きな政治的実績を得ました。

軍事的な勝利だけではなく、織田家中での発言力と正統性を大きく高めたことが山崎の最大の意味です。

清須会議へつながる

山崎の戦い後、織田家の後継と領地配分を話し合う清須会議が開かれました。

秀吉は山崎での勝利を背景に、織田家中の主導権争いで大きな存在感を持つようになります。

山崎の戦いが重要な理由

山崎の戦いは、光秀の敗北だけを意味する戦いではありません。

本能寺の変後の権力空白の中で、羽柴秀吉が「有力家臣の一人」から織田家中の中心人物へ近づく最初の大きな一歩になった点が重要です。

山崎の戦いについてよくある質問

山崎の戦いは何年ですか?

天正10年(1582年)6月13日です。

誰と誰が戦いましたか?

羽柴秀吉軍と明智光秀軍です。

どちらが勝ちましたか?

羽柴秀吉方が勝利しました。

光秀はどこへ退却しましたか?

勝龍寺城へ退却しました。

主要出典・参考資料

山崎の戦いの主要出典・参考資料

合戦・事件情報の確認に使用した主要な史料・公的資料・研究資料などを掲載します。

※ 資料ごとに記述・年代・解釈が異なる場合があります。本文では複数資料を照合し、断定できない事項はその旨を区別して扱います。
研究・出典確認用データ
登録年代 1582年
異名・別名 山崎合戦
登録出典数 3件
データ確認日 2026-09-18
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