山崎城は、京都府大山崎町の天王山山頂に残る山城跡です。大山崎町によると、現在残る城跡は天正10年(1582年)の山崎の戦い直後に羽柴秀吉が築いたものとされています。
山崎城の基本情報
やまざきじょう
城跡・遺構中心
天王山山頂に残る山城。現在残る城跡は1582年の山崎の戦い直後に羽柴秀吉が築いたとされる。
山崎の戦い直後に羽柴秀吉が築いた拠点で、本能寺の変後の主導権確立と天下統一への出発点を象徴する城。
大阪平野から京都盆地に入る関門となる標高270.4mの天王山山頂に位置する山城。
天守台跡、門跡、井戸跡、土塁跡、礎石などが残る。
情報確認日:
2026-09-18
山崎城の歴代城主・支配勢力
城主や支配勢力の移り変わりを、登録されている期間に沿って時系列でたどります。
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01 1582年〜史料上確認山崎の戦い直後に築城した。
山崎城の築城から現在までの変遷
築城・改修・攻城・城主交代・落城・廃城など、城そのものの歴史を時系列でたどります。
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01 1582年
山崎の戦い
羽柴秀吉が明智光秀を破る。 -
02 1582年
羽柴秀吉が築城
山崎の戦い直後、天王山山頂に現在残る山崎城を築く。
山崎城に関係する合戦・事件
攻城・籠城・政変・本拠移転など、この城との関係が登録されている合戦・事件を年代順にたどれます。
山崎の戦い
※ 関連する出来事には、城内で直接戦闘が行われたものだけでなく、籠城・進軍・政変・本拠移転など、この城との関係が登録されている出来事を含みます。
合戦・事件一覧を見る →山崎城と関係する城・拠点
本城・支城・前身城・後継城・周辺防衛拠点など、登録されている城同士の関係を横断してたどれます。
勝龍寺城
※ 関係種別は登録済みデータに基づきます。詳細種別が未登録の城は「関連城・拠点」として表示します。
城・拠点一覧を見る →山崎城は、単なる「山崎の戦いの城」ではありません。明智光秀を破った秀吉が、その勝利を政治的・軍事的な主導権へ変えていく最初期の拠点として見ると重要性が分かります。
山崎城とは?まず押さえたいポイント
- 京都府大山崎町の天王山山頂にある
- 標高270.4メートルの天王山に築かれた
- 1582年の山崎の戦い直後、羽柴秀吉が築城した
- 本能寺の変後の秀吉の勢力拡大と深く関係する
- 大山崎町は「天下統一の出発点」と紹介している
- 天守台跡・門跡・井戸跡・土塁跡・礎石などが残る
山崎城がある天王山とは
天王山は、大阪平野から京都盆地へ入る関門に位置する山です。
標高270.4メートルの山頂から周辺を見渡せる立地で、交通・軍事の両面で重要でした。
山崎の戦いと天王山
1582年、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれると、中国地方にいた羽柴秀吉が畿内へ戻りました。
秀吉軍と光秀軍は山崎周辺で戦い、秀吉が勝利します。
山崎城は合戦前ではなく「合戦直後」の城
ここは誤解しやすいポイントです。
大山崎町の案内では、現在残る山崎城跡は山崎の戦い直後に秀吉が築いた城とされています。つまり合戦そのもののために事前築城された城ではなく、勝利後の拠点です。
なぜ秀吉は天王山に城を築いたのか
山崎は京都と大坂方面を結ぶ重要地域です。
山崎の戦いで勝利した後、この交通・軍事上の要地を押さえることは、畿内での主導権を固めるうえで大きな意味を持ちました。
山崎の勝利を政治力へ変える拠点
山崎の戦いで光秀を破ったことで、秀吉は「信長の仇を討った人物」という大きな政治的実績を得ました。
山崎城は、その軍事的勝利を継続的な支配へ結びつける拠点として見ることができます。
秀吉の「天下統一の出発点」
大山崎町は山崎城を、秀吉の天下統一への出発点として紹介しています。
この時点で秀吉の全国支配が完成していたわけではありませんが、本能寺の変後に主導権を拡大していく初期段階として重要です。
清須会議への流れ
山崎の戦い後、織田家の後継と領地配分を話し合う清須会議が開かれます。
山崎で勝利した秀吉は、その実績を背景に織田家中での発言力を高めました。山崎城築城は、この政局と同じ時期に進んだ出来事です。
勝龍寺城との関係
山崎の戦いで敗れた明智光秀は、勝龍寺城へ退却しました。
勝龍寺城が光秀側の最終局面を示す城なのに対し、山崎城は勝者・秀吉の次の段階を示す城です。
山崎城と勝龍寺城をセットで見る
両城を合わせて見ると、1582年の政局が非常に分かりやすくなります。
本能寺の変→山崎の戦い→光秀の勝龍寺城退却→秀吉の山崎城築城という一連の流れです。
山崎城には何が残っている?
大山崎町の案内では、天守台跡、門跡、井戸跡、土塁跡、礎石などが残るとされています。
復元天守を見るタイプの城ではなく、山中に残る遺構から当時の城を読み取る史跡です。
現在の天王山と戦国期の城を混同しない
現在の登山道や案内施設が、そのまま戦国期の城の構造ではありません。
残る土塁・礎石・平坦面などと、現代の整備を区別して見ることが重要です。
山崎城が重要な理由
山崎城は、巨大な城下町を持つ長期本拠ではありません。
しかし、山崎の戦いで明智光秀を破った秀吉が、軍事的勝利を政治的な勢力拡大へ変えていく瞬間を象徴する城として非常に重要です。
山崎城についてよくある質問
山崎城は誰が築きましたか?
大山崎町の案内では、1582年の山崎の戦い直後に羽柴秀吉が築いたとされています。
山崎城は山崎の戦いの前からあった?
現在残る城跡は、山崎の戦い直後に秀吉が築いたものと説明されています。
どこにありますか?
京都府大山崎町の天王山山頂付近です。
何が残っていますか?
天守台跡、門跡、井戸跡、土塁跡、礎石などが残ります。
山崎城の主要出典・参考資料
城・拠点情報の確認に使用した主要な史料・公的資料・研究資料などを掲載します。
天王山山頂 山崎城跡
研究・出典確認用データ
表示値は戦国人に登録されたデータです。研究利用では、各出典の原資料・刊本・論文等をあわせて確認してください。
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勝龍寺城
京都防衛の要衝に位置する城。1571年に細川藤孝が信長の命で改修し、1582年の山崎の戦いでは明智光秀が拠点として使用した。
詳しく見る →山崎の戦い
天正10年(1582年)6月13日、本能寺の変後に明智光秀と羽柴秀吉が山崎周辺で戦った合戦。光秀は敗れて勝龍寺城へ退却した。
詳しく見る →賤ヶ岳の戦い
天正11年(1583年)、本能寺の変後の織田家中の主導権をめぐり、羽柴秀吉と柴田勝家が近江・賤ヶ岳周辺で戦った合戦。
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琵琶湖岸にあった城。羽柴秀吉が入城して今浜を長浜と改め、城下町を整備して数年間居城した。
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天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が京都の本能寺に滞在していた織田信長を襲撃し、信長が自害した事件。
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