賤ヶ岳の戦いは、天正11年(1583年)、本能寺の変後の織田家中の主導権をめぐり、羽柴秀吉と柴田勝家が近江北部で戦った合戦です。戦場は賤ヶ岳だけでなく、余呉湖・木之本・柳ヶ瀬方面へ広がる多数の陣城を含む広い地域でした。
天正11年(1583年)、本能寺の変後の織田家中の主導権をめぐり、羽柴秀吉と柴田勝家が近江・賤ヶ岳周辺で戦った合戦。
羽柴秀吉方の勝利・柴田勝家敗走
情報確認日
2026年9月18日
賤ヶ岳の戦いはなぜ起き、何を変えたのか
背景・出来事・結果・その後への影響を、一連の流れとして整理します。
なぜ起きたのか
賤ヶ岳の戦い
どう終わったのか
その後どう変わったのか
この合戦で秀吉方が勝利し、勝家は越前の北庄城へ退却しました。山崎の戦い・清須会議から続いた信長死後の主導権争いが、軍事的に大きく決着する戦いとして重要です。
賤ヶ岳の戦いとは?まず押さえたいポイント
- 1583年、近江北部で羽柴秀吉と柴田勝家が戦った
- 背景には本能寺の変後の織田家中再編がある
- 清須会議後も両者の対立は解消しなかった
- 戦場は賤ヶ岳だけでなく広い陣城群に及んだ
- 秀吉方が勝利した
- 勝家は北庄城へ退却した
- 北庄城落城で秀吉の主導権が大きく強まった
賤ヶ岳の戦いの陣営・参加勢力
登録済みの陣営データをもとに、主な勢力・指揮者・参加人物を整理しています。
羽柴方
柴田方
賤ヶ岳の戦いの経過
開戦前から決着まで、登録されている出来事を時系列でたどります。
-
織田家中で主導権争い
信長死後の後継と主導権をめぐり、羽柴秀吉と柴田勝家の対立が深まる。 -
近江北部で両軍が対峙
多数の陣城を築き、賤ヶ岳・余呉湖周辺で対峙する。 -
柴田方が敗北
戦闘の結果、羽柴秀吉方が勝利し柴田勝家は北庄城へ退却する。 -
北庄城へ
秀吉軍は越前へ進み、北庄城を攻める。
賤ヶ岳の戦いの勝敗を分けた転機
戦況が大きく動いた局面を、「何が起きたか」「なぜ重要だったか」「その後どう変わったか」に分けて整理します。
柴田方の敗北
賤ヶ岳の戦いに関係する城・拠点
この合戦・事件との関係が登録されている城・砦・館などの拠点をたどれます。
北庄城
※ 関係城には、直接戦闘が行われた城だけでなく、進軍・籠城・本拠・後方拠点など、この出来事との関係が登録された拠点を含みます。
城・拠点一覧を見る →なぜ賤ヶ岳の戦いが起きたのか
1582年、本能寺の変で織田信長と信忠が相次いで亡くなると、織田家の後継と領地配分をめぐる問題が生じました。
山崎の戦いで明智光秀を破った秀吉と、信長以来の宿老・柴田勝家は、織田家中で異なる政治的立場を持つようになります。
清須会議で対立は終わらなかった
清須会議では後継と領地配分が協議されました。
しかし会議が終わっても秀吉と勝家の対立は解消されず、翌1583年には軍事衝突へ発展します。
戦場は賤ヶ岳だけではない
長浜市の資料では、戦場は賤ヶ岳だけでなく、木之本から柳ヶ瀬方面まで多数の陣城を含む広い範囲に及んだことが確認できます。
「山頂で一度だけ決戦した」というイメージより、複数の拠点・陣地をめぐる広域戦として見る方が実態に近づきます。
なぜ近江北部が戦場になった?
北近江は秀吉が長浜城を拠点として支配経験を持つ地域で、一方、勝家の本拠・越前北庄へもつながる位置にあります。
両者の勢力圏が接する地域として、軍事的に重要な場所でした。
陣城群が示す長期対陣
両軍は複数の陣城を築き、周辺で対峙しました。
戦国時代の合戦は、いきなり大軍が一日だけぶつかるものばかりではありません。陣地を築き、補給路を維持し、相手の動きを見ながら機会を待つ時間が重要です。
「賤ヶ岳の七本槍」はどう見る?
賤ヶ岳では、後に「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる秀吉方の若武者たちの活躍が有名です。
ただし、後世の軍記や顕彰によって人物像が整理された面もあります。個別武将の英雄譚だけで合戦全体を説明せず、両軍の広域な対陣と主導権争いを中心に見ることが重要です。
戦闘の結果、柴田方が敗北
戦闘の結果、秀吉方が優勢となり、柴田方は敗北しました。
勝家は越前の北庄城へ退却します。
秀吉は勝家を追って越前へ
賤ヶ岳で勝利した秀吉軍は、勝家を追って越前へ進みました。
そのため賤ヶ岳の戦いは、北庄城落城までを一続きで見る必要があります。
北庄城で柴田勝家が最期
北庄城は秀吉軍に攻められ、勝家は妻のお市の方とともに最期を迎えました。
これによって、旧織田家臣団の中で秀吉に対抗する大きな勢力はさらに弱まりました。
お市の方と浅井三姉妹
勝家の妻・お市の方は織田信長の妹で、浅井長政の未亡人です。
北庄城落城時、お市は最期を迎えましたが、娘たちは生き延び、その後豊臣・京極・徳川家と深く関わります。
秀吉は賤ヶ岳だけで天下人になった?
賤ヶ岳の勝利は秀吉にとって大きな前進でしたが、この一戦だけで全国統一が完成したわけではありません。
山崎の戦い、清須会議、賤ヶ岳、その後の各地の戦争・服属を経て、段階的に全国支配を進めていきます。
賤ヶ岳の戦いが重要な理由
賤ヶ岳の戦いは、信長死後の織田家中の主導権争いを大きく変えました。
秀吉が柴田勝家を破り、北庄城落城へつなげたことで、旧織田家臣団の中で秀吉が圧倒的に有利な立場へ進む転換点となったのです。
賤ヶ岳の戦いについてよくある質問
賤ヶ岳の戦いは何年ですか?
天正11年(1583年)です。
誰と誰が戦いましたか?
羽柴秀吉と柴田勝家を中心とする両軍です。
どちらが勝ちましたか?
羽柴秀吉方が勝利しました。
柴田勝家はその後どうなりましたか?
越前の北庄城へ退却し、その後秀吉軍の攻撃を受けて最期を迎えました。
賤ヶ岳の戦いの主要出典・参考資料
合戦・事件情報の確認に使用した主要な史料・公的資料・研究資料などを掲載します。
第4章 歴史文化資産の活用のための枠組
柴田勝家 ― 北庄に掛けた夢とプライド
研究・出典確認用データ
表示値は戦国人に登録されたデータです。研究利用では、各出典の原資料・刊本・論文等をあわせて確認してください。
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北庄城
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1582年、本能寺の変後に清須城で開かれた会議。織田信長の後継と領地配分をめぐり、柴田勝家・羽柴秀吉ら重臣が協議した。
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