本能寺の変は、天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が京都の本能寺に滞在していた織田信長を襲撃し、信長が最期を迎えた事件です。さらに嫡男・織田信忠も二条御所で自害しました。
天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が京都の本能寺に滞在していた織田信長を襲撃し、信長が自害した事件。
織田信長が自害・明智光秀が京都を掌握
情報確認日
2026年9月18日
本能寺の変はなぜ起き、何を変えたのか
背景・出来事・結果・その後への影響を、一連の流れとして整理します。
なぜ起きたのか
本能寺の変
どう終わったのか
その後どう変わったのか
日本史上屈指の有名事件ですが、光秀がなぜ信長を討ったのかは現在も確定していません。本能寺襲撃という事実と、怨恨説・野望説・共謀説など後世に生まれた「動機の説明」を分けて見ることが重要です。
本能寺の変とは?まず押さえたいポイント
- 1582年6月2日、京都で発生した
- 明智光秀が織田信長を襲撃した
- 信長は本能寺で最期を迎えた
- 織田信忠も同日に二条御所で自害した
- 光秀は亀山城から軍勢を率いて出陣した
- 光秀の動機は現在も確定していない
- 現在の本能寺と事件当時の本能寺は場所が異なる
- 11日後、光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた
本能寺の変の陣営・参加勢力
登録済みの陣営データをもとに、主な勢力・指揮者・参加人物を整理しています。
明智方
織田方
本能寺の変の経過
開戦前から決着まで、登録されている出来事を時系列でたどります。
-
光秀が亀山城から出陣
軍勢を率いて亀山城を出発する。 -
京都へ進軍
老ノ坂を越え、京都へ向かう。 -
本能寺を襲撃
明智軍が本能寺を襲撃し、織田信長が自害する。 -
光秀が京都周辺を掌握
光秀は京都周辺の掌握を進めるが、その後山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れる。
本能寺の変の勝敗を分けた転機
戦況が大きく動いた局面を、「何が起きたか」「なぜ重要だったか」「その後どう変わったか」に分けて整理します。
本能寺襲撃と信長の死
本能寺の変の主要人物・参戦武将
この出来事に深く関わった人物を、主要人物と参戦・関係人物に分けてたどれます。
主要人物
合戦・事件の中心となった人物。
織田信長
※ 参戦・関与の範囲や役割には史料・研究上の差がある場合があります。陣営データに確度情報がある場合はカード内に表示します。
戦国人物一覧を見る →本能寺の変に関係する城・拠点
この合戦・事件との関係が登録されている城・砦・館などの拠点をたどれます。
安土城
丹波亀山城
勝龍寺城
※ 関係城には、直接戦闘が行われた城だけでなく、進軍・籠城・本拠・後方拠点など、この出来事との関係が登録された拠点を含みます。
城・拠点一覧を見る →1582年6月1日夕刻、光秀が亀山城を出陣
亀岡市の資料では、光秀が丹波亀山城から軍勢を率いて出陣したことが確認できます。
本来は中国方面で毛利氏と戦う羽柴秀吉を支援する軍事行動と見られていましたが、軍勢は京都方面へ進みます。
6月2日未明、京都へ
光秀軍は老ノ坂を越え、京都方面へ進みました。
そして本能寺に滞在していた信長を急襲します。
「敵は本能寺にあり」は本当に言った?
光秀の名台詞として「敵は本能寺にあり」が有名です。
しかし、この言葉をそのまま同時代史料で確認できるわけではありません。後世に事件を劇的に表現する言葉として広まったものと分けて考える必要があります。
なぜ信長は少人数で本能寺にいたのか
当時の信長は京都に滞在しており、大軍を率いて戦場の城に籠城していたわけではありません。
そのため、光秀軍の急襲に対して十分な兵力を集める時間がありませんでした。
織田信長の最期
明智軍に包囲された本能寺で、信長は最期を迎えました。切腹の記録や遺体・首の行方については、織田信長の死因と最期の記事で詳しく解説しています。
遺体の行方などをめぐってさまざまな説・伝承がありますが、確認できない部分を生存説などへ飛躍させるべきではありません。
織田信忠も同日に最期
本能寺の変で重要なのは、信長だけでなく、すでに織田家の家督を継いでいた信忠も同日に亡くなったことです。
信忠は二条御所で明智勢と戦い、自害しました。最高権力者と正式な後継者を同時に失ったことが、織田家の政治秩序を大きく崩します。
光秀はなぜ信長を討ったのか
最大の謎が、光秀の動機です。
怨恨説、野望説、信長の政策への反発、四国政策との関係、他勢力との共謀説など多くの説がありますが、一つに確定できる決定的な史料はありません。
怨恨説はどこまで史実?
信長から光秀が辱められた、母を見殺しにされたといった有名な逸話があります。
しかし、こうした話の中には後世の軍記・物語で形成されたものもあります。「恨みがあったから反乱した」と単純化するのは危険です。
光秀は本能寺後、京都周辺を掌握
信長・信忠を失わせた後、光秀は京都周辺の掌握を進めました。
ただし、有力な織田家臣や姻戚関係にあった細川家などを十分に味方へ引き込めませんでした。
細川藤孝・忠興は光秀側につかなかった
光秀の娘・たまは細川忠興の妻であり、明智家と細川家は姻戚関係にありました。
それでも細川藤孝・忠興は光秀の軍事行動に加わりませんでした。戦国政治では家族関係と政治判断が必ずしも一致しないことを示します。
秀吉が中国地方から戻る
本能寺の変当時、羽柴秀吉は中国地方で毛利氏と対陣していました。
信長の死を知ると和睦を進め、畿内へ急速に戻ります。後に「中国大返し」と呼ばれる行動です。
11日後、山崎の戦い
6月13日、秀吉軍と光秀軍は山崎周辺で戦いました。
光秀は敗れ、勝龍寺城へ退却。その後、坂本城へ向かう途中で最期を迎えたとされます。
本能寺の変から清須会議へ
光秀が山崎で敗れた後も、織田家の後継問題は残りました。
清須城で重臣たちが集まり、後継と領地配分を協議します。本能寺の変は、山崎・清須会議・賤ヶ岳へ続く一連の政局の出発点です。
現在の本能寺は事件当時と場所が違う
京都市公式案内によると、現在の本能寺は1589年に移転再建されたものです。
1582年に事件が起きた本能寺跡は、現在の寺とは別の場所です。観光時にはここを混同しないことが重要です。
安土城も本能寺後に大きく変わった
信長の本拠・安土城も、本能寺の変後に明智方の手へ渡り、その後天主・本丸が焼失しました。
本能寺の変は京都の一寺院だけの事件ではなく、織田政権の広い支配構造を一気に揺さぶった事件です。
本能寺の変が重要な理由
本能寺の変の最大の影響は、織田信長と正式な後継者・信忠を同時に失わせたことです。
これによって全国統一を進めていた織田政権の主導権が空白となり、羽柴秀吉をはじめとする有力家臣が次の政治秩序を争う時代へ一気に移ったのです。
本能寺の変についてよくある質問
本能寺の変は何年ですか?
天正10年(1582年)6月2日です。
明智光秀はなぜ信長を討ったのですか?
現在も決定的な理由は分かっていません。複数説があります。
「敵は本能寺にあり」は本当に言った?
有名な表現ですが、そのまま同時代史料で確認できる発言ではありません。
現在の本能寺で事件が起きたのですか?
いいえ。事件当時の本能寺と現在の本能寺は場所が異なります。
本能寺の変の主要出典・参考資料
合戦・事件情報の確認に使用した主要な史料・公的資料・研究資料などを掲載します。
第20回 明智光秀と本能寺の変
明智光秀 京都・ゆかりの地をめぐる
本能寺
研究・出典確認用データ
表示値は戦国人に登録されたデータです。研究利用では、各出典の原資料・刊本・論文等をあわせて確認してください。
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織田信長
1534年生まれ。尾張を基盤に勢力を拡大し、桶狭間の戦い、美濃攻略、上洛、安土城築城などを経て天下統一を進めた。1582年、本能寺の変で没した。
詳しく見る →勝龍寺城
京都防衛の要衝に位置する城。1571年に細川藤孝が信長の命で改修し、1582年の山崎の戦いでは明智光秀が拠点として使用した。
詳しく見る →山崎の戦い
天正10年(1582年)6月13日、本能寺の変後に明智光秀と羽柴秀吉が山崎周辺で戦った合戦。光秀は敗れて勝龍寺城へ退却した。
詳しく見る →丹波亀山城
明智光秀が1577年頃、丹波攻略・平定の拠点として築いた平山城。本能寺の変では光秀がこの城から出陣したとされる。
詳しく見る →安土城
織田信長が天正4年(1576年)に築城を開始し、天正7年(1579年)に天主が完成して移り住んだ城。天下統一の拠点として築かれた。
詳しく見る →清須会議
1582年、本能寺の変後に清須城で開かれた会議。織田信長の後継と領地配分をめぐり、柴田勝家・羽柴秀吉ら重臣が協議した。
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