一乗谷城は、越前朝倉氏の本拠・一乗谷の東方にそびえる一乗城山へ築かれた山城です。山麓の朝倉館や城下町とは別に、有事に備える「詰城」として整えられました。
一乗谷城の基本情報
いちじょうだにじょう
城跡・遺構中心
越前朝倉氏の城下町・一乗谷東方の一乗城山に築かれた詰城。千畳敷・連続曲輪群・約140条の畝状竪堀など強固な防御施設を備えた。
一乗谷城下町と朝倉館を守る有事用の詰城で、周辺支城とともに一乗谷防衛網の中核を担った。
特別史跡 一乗谷朝倉氏遺跡の一部
千畳敷などの山上御殿群、一ノ丸・二ノ丸・三ノ丸の連続曲輪群、空堀・堀切・土塁・約140条の畝状竪堀を備える。
曲輪、千畳敷、礎石、空堀、堀切、土塁、畝状竪堀などの防御施設が現在も確認できる。
築城・廃城に関する異説
有事用の詰城として築かれたが、一乗谷朝倉氏遺跡博物館は1573年の信長侵攻時を含め実際には使用されなかったようだと説明している。
情報確認日:
2026-09-19
一乗谷城の歴代城主・支配勢力
城主や支配勢力の移り変わりを、登録されている期間に沿って時系列でたどります。
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01 戦国時代史料上確認一乗谷を本拠とする朝倉氏当主。山城は城下町防衛の詰城として機能する想定だった。
一乗谷城の築城から現在までの変遷
築城・改修・攻城・城主交代・落城・廃城など、城そのものの歴史を時系列でたどります。
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01 戦国時代
一乗谷防衛の山城として整備
城下町東方の一乗城山に、有事用の詰城として一乗谷城が築かれる。 -
02 戦国時代
強固な防御施設を構築
連続曲輪群や約140条の畝状竪堀などが整備される。 -
03 1573年
刀根坂の戦い
朝倉義景が刀根坂で大敗し、一乗谷へ敗走する。 -
04 1573年
一乗谷が破却される
織田軍が一乗谷を焼き、城下町は大きく破壊される。山城は籠城に使われなかった。 -
05 1971年
一乗谷朝倉氏遺跡が特別史跡に指定
谷全体の大規模遺跡が国の特別史跡に指定される。
一乗谷城の主要構造・遺構
天守・曲輪・櫓・門・石垣・堀・土塁など、登録されている城郭構造と現在の残存状況を種類別に整理します。
曲輪
1件一ノ丸・二ノ丸・三ノ丸
土塁
1件土塁・堀切・空堀
その他
2件千畳敷・山上御殿群
畝状竪堀
一乗谷城に関係する武将・人物
築城者・城主・攻城側・滞在者など、この城との関係が登録されている人物を横断してたどれます。
※ 同一人物が複数の関係を持つ場合は1枚のカードに統合します。「関係武将・人物」には攻城側・滞在者などを含みますが、具体的な関係は登録済みデータの範囲に基づきます。
戦国人物一覧を見る →一乗谷城に関係する合戦・事件
攻城・籠城・政変・本拠移転など、この城との関係が登録されている合戦・事件を年代順にたどれます。
※ 関連する出来事には、城内で直接戦闘が行われたものだけでなく、籠城・進軍・政変・本拠移転など、この城との関係が登録されている出来事を含みます。
合戦・事件一覧を見る →一乗谷城の特徴は、標高約475メートルの山上に千畳敷・連続曲輪群・約140条の畝状竪堀を備えるほど大規模なのに、1573年の朝倉氏滅亡時にも実戦で使われなかったとされることです。
一乗谷城とは?まず押さえたいポイント
- 一乗谷朝倉氏遺跡背後の山上にある
- 標高約475メートル
- 山麓の朝倉館・城下町を守る詰城
- 千畳敷、一ノ丸・二ノ丸・三ノ丸などを持つ
- 約140条の畝状竪堀が確認されている
- 空堀・堀切・土塁なども残る
- 1573年、朝倉氏滅亡時にも籠城には使われなかったとされる
- 特別史跡・一乗谷朝倉氏遺跡の一部
一乗谷城と朝倉館は別の場所
「一乗谷」という名前から、山麓の朝倉館と山上の一乗谷城を同じものだと思いやすいですが、役割は異なります。
普段の政治・生活の中心は山麓の館・城下町で、山上の城は有事に備えた防御拠点でした。
「詰城」とは何?
詰城とは、平時の生活拠点とは別に、敵の攻撃など非常時に籠もることを想定した城です。
一乗谷城は朝倉氏の本拠を守る最終防衛拠点として整備されたと考えると分かりやすくなります。
標高約475メートルの山城
福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館によると、一乗谷城は標高約475メートルの山上にあります。
山麓から大きな高低差があり、地形そのものが防御力になります。
千畳敷と山上御殿群
山上には千畳敷と呼ばれる広い区画や、観音屋敷、月見櫓などに関係する方形区画群があります。
単純な兵の駐屯地ではなく、山上にも一定の居住・指揮空間を想定した構造があったことが分かります。
一ノ丸・二ノ丸・三ノ丸
一乗谷城には一ノ丸・二ノ丸・三ノ丸と呼ばれる連続した曲輪群があります。
尾根を段階的に区切り、敵の進入を防ぎながら防御できるように整えられていました。
約140条の畝状竪堀
一乗谷城で特に目を引くのが、多数の畝状竪堀です。
博物館の案内では、山城全体で約140条が確認されています。斜面を縦方向に区切ることで、攻める側の横移動を制限する防御施設です。
空堀・堀切・土塁も残る
曲輪だけでなく、空堀・堀切・土塁なども残っています。
山そのものを大規模な防御施設へ変える、戦国山城らしい構造を見ることができます。
これほど強固なのに実戦で使われなかった?
一乗谷朝倉氏遺跡博物館は、山城が1573年の織田信長侵攻時を含め、実際には使われなかったようだと説明しています。
「強い城を造れば必ず籠城する」というわけではないことを示す、非常に興味深い例です。
1573年、刀根坂の戦いで朝倉軍が大敗
朝倉義景は浅井氏救援から撤退する途中、刀根坂で織田軍の追撃を受けて大敗しました。
義景は一乗谷へ戻りましたが、軍事的に立て直すことができませんでした。
なぜ一乗谷城へ籠もらなかったのか
義景が山城へ籠城しなかった具体的理由を一つに断定することはできません。
刀根坂での大敗、家中の動揺、兵力・補給、政治状況など複数の条件が影響したと考える必要があります。
一乗谷は焼かれ、朝倉氏は滅亡
1573年、織田軍は一乗谷へ進み、城下町は大きく破壊されました。
義景は大野郡へ移り、その後自害。約100年続いた越前朝倉氏の支配は終わります。
城下町・館・山城をセットで見る
一乗谷の価値は、山城だけではありません。
朝倉館、武家屋敷、町屋、寺院、道路、そして背後の山城までが一体として残ることで、戦国大名の本拠がどのように構成されていたかを理解できます。
現在は特別史跡の一部
一乗谷朝倉氏遺跡は1971年に国の特別史跡へ指定されました。
山上の城郭遺構だけでなく、谷全体を歴史空間として見ることができます。
一乗谷城が重要な理由
一乗谷城は「戦った城」ではなく、「戦うために準備されていたのに最後まで使われなかった城」という点が特徴です。
強大な防御施設があっても、戦争の勝敗は城の構造だけでなく、軍勢・補給・家臣団・政治状況で決まることを教えてくれる城です。
一乗谷城についてよくある質問
一乗谷城はどこにありますか?
福井市の一乗谷朝倉氏遺跡背後、一乗城山の山上にあります。
標高はどれくらい?
約475メートルです。
畝状竪堀はいくつありますか?
一乗谷朝倉氏遺跡博物館は、約140条と紹介しています。
朝倉氏滅亡時に籠城しましたか?
博物館の案内では、1573年の滅亡時にも実戦使用されなかったようだとされています。
一乗谷城の主要出典・参考資料
城・拠点情報の確認に使用した主要な史料・公的資料・研究資料などを掲載します。
遺跡散策
遺跡のご紹介
研究・出典確認用データ
表示値は戦国人に登録されたデータです。研究利用では、各出典の原資料・刊本・論文等をあわせて確認してください。
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刀根坂の戦い
1573年8月、浅井氏救援から撤退する朝倉義景軍を織田信長軍が近江から敦賀へ至る刀根坂で追撃し、朝倉軍が大敗した戦い。
詳しく見る →織田信長
1534年生まれ。尾張を基盤に勢力を拡大し、桶狭間の戦い、美濃攻略、上洛、安土城築城などを経て天下統一を進めた。1582年、本能寺の変で没した。
詳しく見る →北庄城
1575年、織田信長が越前支配の拠点を北庄に定め、柴田勝家が築いた城。1583年、賤ヶ岳の戦い後に落城した。
詳しく見る →姉川の戦い
1570年、近江国姉川周辺で浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が戦った合戦。
詳しく見る →小谷城の戦い
天正元年(1573年)、織田信長が北近江の浅井氏本拠・小谷城を攻め、浅井長政が自害して浅井氏が滅亡した戦い。
詳しく見る →小谷城
北近江を支配した浅井氏三代の居城。1525年頃に浅井亮政が築城し、1573年に織田信長軍の攻撃で落城した。
詳しく見る →一乗谷城を起点に、もう一歩調べる
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