刀根坂の戦いは、天正元年(1573年)8月13日、浅井氏救援から越前へ撤退する朝倉義景軍を織田信長軍が追撃し、朝倉軍が大敗した戦いです。
1573年8月、浅井氏救援から撤退する朝倉義景軍を織田信長軍が近江から敦賀へ至る刀根坂で追撃し、朝倉軍が大敗した戦い。
刀根坂合戦
織田方の勝利・朝倉軍大敗
情報確認日
2026年9月19日
刀根坂の戦いはなぜ起き、何を変えたのか
背景・出来事・結果・その後への影響を、一連の流れとして整理します。
なぜ起きたのか
刀根坂の戦い
どう終わったのか
その後どう変わったのか
この戦いは一日の敗北だけで終わりません。刀根坂での大敗→一乗谷帰還→大野への移動→義景自害という流れがわずか一週間ほどで続き、朝倉氏滅亡へ直結したことが最大の特徴です。
刀根坂の戦いとは?まず押さえたいポイント
- 1573年8月13日、織田信長軍と朝倉義景軍が戦った
- 朝倉義景は浅井氏救援のため近江へ出陣していた
- 戦況悪化で朝倉軍が越前へ撤退した
- 織田軍が撤退中の朝倉軍を追撃した
- 朝倉軍は刀根坂周辺で大敗した
- 義景は一乗谷へ敗走した
- 8月20日には義景が自害し、朝倉氏は滅亡した
刀根坂の戦いの陣営・参加勢力
登録済みの陣営データをもとに、主な勢力・指揮者・参加人物を整理しています。
織田方
朝倉方
刀根坂の戦いの経過
開戦前から決着まで、登録されている出来事を時系列でたどります。
-
朝倉義景が浅井氏救援へ出陣
義景が浅井氏救援のため一乗谷を出陣する。 -
織田軍が朝倉軍を追撃
越前へ退却する朝倉軍を織田信長軍が刀根坂周辺で追撃する。 -
朝倉軍が大敗
朝倉軍は大きな損失を受け、義景は一乗谷へ敗走する。 -
義景が一乗谷から大野へ
一乗谷へ戻った義景は、その後大野郡へ移る。 -
朝倉義景が自害
大野郡で朝倉景鏡方の兵に囲まれ、義景が自害する。
刀根坂の戦いの勝敗を分けた転機
戦況が大きく動いた局面を、「何が起きたか」「なぜ重要だったか」「その後どう変わったか」に分けて整理します。
朝倉軍の大敗
刀根坂の戦いの主要人物・参戦武将
この出来事に深く関わった人物を、主要人物と参戦・関係人物に分けてたどれます。
主要人物
合戦・事件の中心となった人物。
織田信長
※ 参戦・関与の範囲や役割には史料・研究上の差がある場合があります。陣営データに確度情報がある場合はカード内に表示します。
戦国人物一覧を見る →刀根坂の戦いに関係する城・拠点
この合戦・事件との関係が登録されている城・砦・館などの拠点をたどれます。
小谷城
一乗谷城
※ 関係城には、直接戦闘が行われた城だけでなく、進軍・籠城・本拠・後方拠点など、この出来事との関係が登録された拠点を含みます。
城・拠点一覧を見る →刀根坂の戦いの背景|浅井・朝倉と織田の長期戦
背景には1570年以来続いていた織田信長と浅井・朝倉勢力の抗争があります。
浅井長政と朝倉義景は連携し、織田氏に対抗していました。姉川の戦い後も両氏は滅亡せず、小谷城と越前一乗谷を拠点に抵抗を続けます。
1573年、信長が小谷城への圧力を強める
1573年、信長は浅井氏の本拠・小谷城への攻勢を強めました。
浅井氏にとって朝倉氏の援軍は非常に重要でした。朝倉義景も救援のため近江へ出陣します。
7月17日、朝倉義景が一乗谷を出陣
福井県史年表では、7月17日に義景が浅井氏救援のため出陣したことが確認できます。
朝倉軍は越前から近江へ進み、小谷城周辺の織田軍と対峙することになりました。
なぜ朝倉軍は撤退したのか
小谷城周辺で織田方の攻勢が強まる中、朝倉軍は越前への撤退を始めました。
具体的な撤退判断の細部には史料差がありますが、重要なのは撤退自体より、その軍勢を信長が即座に追撃したことです。
8月13日、織田信長軍が追撃
越前へ戻ろうとする朝倉軍を、織田軍が追いました。
福井県史年表では、8月13日に刀根坂で朝倉軍が大敗したことが記されています。
正面決戦というより「撤退戦・追撃戦」
刀根坂の戦いは、両軍があらかじめ広い平地に布陣して始まった大会戦とは性格が異なります。
退却する朝倉軍に織田軍が追撃をかけた戦いとして見る方が、事件の流れを理解しやすくなります。
刀根坂はどこ?|単一地点に固定しない
「刀根坂」の具体的な戦闘地点や範囲には、史料や比定上の幅があります。
現在の一点だけを唯一の戦場として断定するのではなく、近江北部から敦賀方面へ至る山地・交通路を含めた撤退路として考える必要があります。
朝倉軍はどれくらい損害を受けた?
朝倉軍が大敗したことは公的資料でも確認できます。
一方、具体的な兵力や戦死者数には史料差があります。軍記物に登場する数字を確定値として扱うより、軍事的に立て直しが難しいほど大きな損害だったという結果を重視する方が安全です。
義景は一乗谷へ敗走
刀根坂で大敗した義景は越前へ戻り、一乗谷へ帰りました。
福井県史年表では、8月16日に一乗谷へ敗走した流れが確認できます。
一乗谷へ戻っても態勢を立て直せなかった
一乗谷は朝倉氏が約100年にわたり本拠としてきた政治・文化の中心でした。
しかし刀根坂で軍事力を大きく失った後、義景は一乗谷に留まって再戦することができませんでした。
義景は大野郡へ移る
義景は一乗谷を離れ、大野郡へ移りました。
そこは朝倉一門の朝倉景鏡が支配する地域でした。しかし義景はここで安全を確保することもできませんでした。
8月20日、朝倉義景が自害
福井県史年表では、8月20日に義景が自害したことが確認できます。
刀根坂の大敗からわずかな期間で、朝倉氏当主は最期を迎えました。
刀根坂から朝倉氏滅亡までは非常に短かった
8月13日に刀根坂で大敗し、16日に一乗谷へ戻り、20日に義景が自害しています。
この急速な崩壊こそ、刀根坂の戦いが朝倉氏にとってどれほど決定的だったかを示します。
朝倉氏滅亡で浅井氏も孤立
朝倉氏の崩壊は、北近江の浅井長政にとっても決定的でした。
最大の同盟相手を失った浅井氏は小谷城で孤立し、その直後に織田軍の本格攻撃を受けます。
刀根坂の戦いと小谷城の戦いはセットで見る
刀根坂と小谷城は別々の記事ですが、1573年の歴史では連続した出来事です。
朝倉軍撤退→刀根坂大敗→朝倉氏滅亡→浅井氏孤立→小谷城落城という流れで見ると、信長が浅井・朝倉勢力を一気に解体した過程が分かります。
刀根坂の戦いが重要な理由
刀根坂の戦いは、有名な大会戦のような知名度は高くありません。
しかし歴史的には、約100年にわたり越前を支配した朝倉氏が崩壊する直接の軍事的転機であり、さらに浅井氏滅亡まで連鎖させた重要な戦いです。
刀根坂の戦いについてよくある質問
刀根坂の戦いは何年ですか?
天正元年(1573年)8月13日です。
誰と誰が戦いましたか?
織田信長軍と朝倉義景軍です。
どちらが勝ちましたか?
織田方が勝利し、朝倉軍は大敗しました。
刀根坂の戦いの後、朝倉義景はどうなった?
一乗谷へ敗走した後、大野郡へ移り、8月20日に自害しました。
刀根坂の戦いの主要出典・参考資料
合戦・事件情報の確認に使用した主要な史料・公的資料・研究資料などを掲載します。
福井県史年表(1561年~1580年)
朝倉氏の歴史
研究・出典確認用データ
表示値は戦国人に登録されたデータです。研究利用では、各出典の原資料・刊本・論文等をあわせて確認してください。
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織田信長
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