長浜城は、羽柴秀吉が北近江を治める拠点として琵琶湖岸に築いた城です。浅井氏滅亡後、秀吉は一時小谷城へ入り、その後、今浜の地へ本拠を移して城下町を整備しました。
長浜城の基本情報
ながはまじょう
復元・再建建築あり
琵琶湖岸にあった城。羽柴秀吉が入城して今浜を長浜と改め、城下町を整備して数年間居城した。
織田信長のもとで北近江を任された羽柴秀吉の初期の重要拠点で、城下町形成の中心となった。
今浜城
市指定史跡 長浜城跡
琵琶湖岸の城で、秀吉による城下町経営の中心。豊公園は旧城本丸付近にあたるとされる。
旧城域には石垣材などの痕跡が伝わり、現在は城跡に豊公園と長浜城歴史博物館がある。
築城・廃城に関する異説
長浜市は中世の今浜城を前身とし、天正初めに羽柴秀吉が入城して長浜と改称したと説明している。
情報確認日:
2026-09-18
長浜城の歴代城主・支配勢力
城主や支配勢力の移り変わりを、登録されている期間に沿って時系列でたどります。
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01 天正初め〜史料上確認入城後、今浜を長浜と改め、城下町を経営した。
長浜城の築城から現在までの変遷
築城・改修・攻城・城主交代・落城・廃城など、城そのものの歴史を時系列でたどります。
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01 天正初め
羽柴秀吉が入城
秀吉が入城し、今浜を長浜と改めて城下町を整備する。 -
02 1583年
賤ヶ岳の戦いで根拠地となる
秀吉が長浜を根拠地として戦い、勢力を拡大する。 -
03 1615年
廃城
内藤氏の高槻移封後に廃城となり、建造物・石垣の多くが彦根城へ移されたとされる。 -
04 1983年
長浜城歴史博物館が開館
城跡に天守閣を模した長浜城歴史博物館が開館する。
長浜城に関係する武将・人物
築城者・城主・攻城側・滞在者など、この城との関係が登録されている人物を横断してたどれます。
※ 同一人物が複数の関係を持つ場合は1枚のカードに統合します。「関係武将・人物」には攻城側・滞在者などを含みますが、具体的な関係は登録済みデータの範囲に基づきます。
戦国人物一覧を見る →長浜城と関係する城・拠点
本城・支城・前身城・後継城・周辺防衛拠点など、登録されている城同士の関係を横断してたどれます。
小谷城
横山城
※ 関係種別は登録済みデータに基づきます。詳細種別が未登録の城は「関連城・拠点」として表示します。
城・拠点一覧を見る →長浜城は、秀吉が単なる織田家の武将から、一つの地域を自分で治める領主へ成長したことを象徴する城です。横山城・小谷城から長浜城へ至る流れを見ると、秀吉の出世が地理的にも分かります。
長浜城とは?まず押さえたいポイント
- 琵琶湖岸の今浜に築かれた城
- 浅井氏滅亡後、羽柴秀吉が北近江支配の拠点とした
- 秀吉が今浜を「長浜」と改称したとされる
- 城と城下町を一体で整備した
- 1583年の賤ヶ岳の戦いでも秀吉の重要拠点となった
- 1615年頃に廃城となった
- 現在の天守風建物は長浜城歴史博物館
長浜城の前に秀吉はどこにいた?
秀吉は長浜城主になる前、姉川の戦い後に横山城を預かっていました。
その後、小谷城攻略に関わり、浅井氏滅亡後には旧浅井領を与えられます。
小谷城から今浜へ
浅井氏滅亡後、秀吉は一時小谷城へ入りました。
しかしその後、山上の小谷城ではなく、琵琶湖岸の今浜へ本拠を移します。これは北近江支配の方法そのものが変わる大きな転換でした。
なぜ琵琶湖岸へ移ったのか
琵琶湖岸の拠点は、物資・人の移動、周辺地域との連絡、城下町形成を考えるうえで有利な条件を持ちます。
山城中心の支配から、湖上交通と城下町を重視する支配へ移ったと見ると、長浜城の意味が分かりやすくなります。
「今浜」から「長浜」へ
長浜市の案内では、秀吉が今浜を「長浜」と改称したとされています。
現在まで続く地名が秀吉の城下町経営と結びついていることは、長浜城の大きな特徴です。
城下町経営を進める
秀吉は城だけでなく、周辺の町づくりも進めました。
戦国大名・領主にとって、城下町は商人・職人・家臣・物資を集める重要な空間です。長浜城は北近江を統治するための都市拠点でもありました。
長浜時代は秀吉の「領主経験」の出発点
長浜城の重要性は、秀吉が城を持ったという事実だけではありません。
一地域を継続的に治め、城下町を運営する経験を積んだことが、その後のより大きな支配へつながっていきます。
1582年、本能寺の変で状況が一変
本能寺の変で織田信長が亡くなると、秀吉は中国地方から畿内へ戻り、山崎の戦いで明智光秀を破りました。
長浜を基盤に成長した秀吉は、この後、旧織田家臣団の主導権争いへ進んでいきます。
1583年、賤ヶ岳の戦いと長浜
秀吉と柴田勝家の対立は賤ヶ岳の戦いへ発展しました。
長浜は秀吉側の重要な根拠地となり、北近江という地理が再び大きな意味を持ちます。
長浜城はいつまで使われた?
長浜城は秀吉だけの城ではなく、その後も城として利用されました。
最終的には元和元年(1615年)頃に廃城となり、建造物や石垣の多くが彦根城へ移されたと伝えられています。
現在の長浜城は復元天守?
現在、豊公園内に建つ天守風の建物は、戦国期の長浜城天守を忠実に復元したものではありません。
1983年に開館した長浜城歴史博物館で、城跡に歴史学習施設として建てられたものです。
豊公園は旧城本丸付近
現在の豊公園は、旧長浜城本丸付近に広がるとされています。
現地を歩くときは、現在の公園景観と戦国期の城郭をそのまま同一視せず、城跡として地形を意識して見ることが大切です。
横山城・小谷城・長浜城をセットで見る
秀吉の北近江での成長は、横山城→小谷城攻略→長浜城という流れで見ると非常に分かりやすくなります。
前線指揮官から城主、そして地域支配者へ進んだ過程が、城の変化としてそのまま残っています。
長浜城が重要な理由
長浜城は「秀吉が住んだ城」というだけではありません。
北近江支配、城下町形成、湖上交通、賤ヶ岳への政治・軍事的つながりを通じて、秀吉が天下人になる前に地域経営を学んだ場所として重要です。
長浜城についてよくある質問
長浜城を築いたのは誰ですか?
羽柴秀吉が北近江支配の拠点として整備しました。
長浜という地名は秀吉と関係ありますか?
長浜市の案内では、秀吉が今浜を長浜へ改称したとされています。
現在の長浜城は当時の天守ですか?
いいえ。現在の天守風建物は長浜城歴史博物館です。
長浜城はいつ廃城になりましたか?
元和元年(1615年)頃に廃城となりました。
長浜城の主要出典・参考資料
城・拠点情報の確認に使用した主要な史料・公的資料・研究資料などを掲載します。
長浜城跡
豊公園の紹介
研究・出典確認用データ
表示値は戦国人に登録されたデータです。研究利用では、各出典の原資料・刊本・論文等をあわせて確認してください。
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横山城
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