虎御前山城は、元亀3年(1572年)、織田信長が浅井氏の本拠・小谷城を攻略するために虎御前山へ築いた大規模な陣城です。小谷城の南西に延びる独立丘陵上にあり、山上から小谷城を正面に望む位置にありました。
虎御前山城の基本情報
とらごぜんやまじょう
城跡・遺構中心
1572年、織田信長が小谷城攻略のため虎御前山に築いた大規模な陣城。信長の本営となり、羽柴秀吉が城番を務めた。
小谷城を包囲・攻略するための織田軍前線基地で、横山城に代わる信長の本営として1573年まで使用された。
虎御前山砦
虎御前山陣城
虎御前山の尾根筋に北の構え・南の構えと細長い曲輪群が連続する大規模な陣城。
最高所付近を中心に曲輪・腰曲輪・土塁などの陣城遺構が残る。
所在地・比定地の補足
小谷城の南西に延びる独立丘陵上に位置し、小谷城を正面に望む。
築城・廃城に関する異説
長浜市の保存管理計画は『信長公記』をもとに、1572年の築城、羽柴藤吉郎の城番、信長本営移転を説明している。
情報確認日:
2026-09-19
虎御前山城の歴代城主・支配勢力
城主や支配勢力の移り変わりを、登録されている期間に沿って時系列でたどります。
-
01 1572年〜1573年
-
02 1572年〜1573年史料上確認『信長公記』を引く長浜市資料では虎御前山の定番を任されたとされる。
虎御前山城の築城から現在までの変遷
築城・改修・攻城・城主交代・落城・廃城など、城そのものの歴史を時系列でたどります。
-
01 1570年
姉川の戦い後、浅井氏攻略が続く
信長は横山城を前線基地とし、小谷城攻略を進める。 -
02 1572年
虎御前山城を築城
信長が小谷城眼前の虎御前山に大規模な陣城を築く。 -
03 1572年
羽柴秀吉が城番
羽柴藤吉郎が虎御前山城の城番を務める。 -
04 1573年
小谷城の戦い
虎御前山城を前線拠点として織田軍が小谷城攻略を進め、浅井氏が滅亡する。 -
05 1573年
軍事的役割を終える
浅井・朝倉両氏の滅亡後、前線基地としての役割を終える。
虎御前山城に関係する武将・人物
築城者・城主・攻城側・滞在者など、この城との関係が登録されている人物を横断してたどれます。
築城者・築城関係者
築城を命じた人物や、築城者として登録されている人物。
織田信長
※ 同一人物が複数の関係を持つ場合は1枚のカードに統合します。「関係武将・人物」には攻城側・滞在者などを含みますが、具体的な関係は登録済みデータの範囲に基づきます。
戦国人物一覧を見る →虎御前山城に関係する合戦・事件
攻城・籠城・政変・本拠移転など、この城との関係が登録されている合戦・事件を年代順にたどれます。
姉川の戦い
小谷城の戦い
※ 関連する出来事には、城内で直接戦闘が行われたものだけでなく、籠城・進軍・政変・本拠移転など、この城との関係が登録されている出来事を含みます。
合戦・事件一覧を見る →虎御前山城と関係する城・拠点
本城・支城・前身城・後継城・周辺防衛拠点など、登録されている城同士の関係を横断してたどれます。
小谷城
横山城
※ 関係種別は登録済みデータに基づきます。詳細種別が未登録の城は「関連城・拠点」として表示します。
城・拠点一覧を見る →この城の最大の特徴は、恒久的な大名の本拠ではなく、小谷城包囲という一つの軍事目的のために築かれた前線基地だったことです。横山城からさらに前線を押し上げた信長軍の戦略を見るうえで欠かせません。
虎御前山城とは?まず押さえたいポイント
- 1572年、織田信長が築城した
- 浅井氏の小谷城を攻略するための陣城
- 信長の本営が置かれた
- 羽柴秀吉が城番を務めた
- 柴田勝家ら織田家の有力武将も布陣した
- 横山城に代わる前線基地となった
- 1573年の小谷城攻略まで使われた
- 浅井・朝倉氏滅亡後に軍事的役割を終えた
なぜ虎御前山に城を築いたのか
姉川の戦い後も浅井氏は小谷城を維持し、織田氏との戦いは続いていました。
織田方は当初、横山城を前線拠点としていましたが、より小谷城へ近い場所へ本営を進める必要がありました。そのため選ばれたのが虎御前山です。
小谷城を真正面に見る前線基地
虎御前山は小谷城の南西に位置し、小谷城を正面に望む場所です。
この立地は、敵城の動きを監視しながら前線を維持するうえで大きな意味を持ちました。
1572年7月末ごろから築城
長浜市の保存管理計画では、『信長公記』をもとに1572年7月末ごろから築城が始まり、8月中に完成したと説明されています。
短期間で築かれた陣城ですが、尾根筋に曲輪群を連ねる大規模な構造を持っていました。
「陣城」とは何?
陣城は、長期間の領国統治を目的とする本拠城とは性格が異なります。
特定の合戦・包囲戦のために築かれ、軍勢の駐屯、指揮、補給、監視を行う拠点です。虎御前山城はその代表例です。
北の構え・南の構えと細長い曲輪群
虎御前山城は尾根筋を利用し、北の構え・南の構えなど複数の区画と細長い曲輪群が連続していました。
一つの大きな天守を中心とする城ではなく、尾根全体を軍事空間として利用する陣城らしい構造です。
羽柴秀吉が城番を務めた
長浜市の資料では、羽柴藤吉郎、後の豊臣秀吉が虎御前山城の城番を任されたことが確認されています。
秀吉にとって北近江は、横山城から虎御前山城、小谷城攻略、そして長浜城へとつながる重要な出世の舞台でした。
柴田勝家らも布陣
虎御前山には柴田勝家ら織田軍の有力武将も布陣しました。
後に秀吉と勝家は賤ヶ岳で争うことになりますが、この時期は同じ織田軍の一員として浅井氏攻略に参加していました。
横山城から虎御前山城へ前線が進む
1570年の姉川の戦い後、横山城が織田方の前進基地となりました。
1572年に虎御前山城が築かれると、信長の本営はより小谷城に近い位置へ移ります。前線の移動そのものが、浅井氏包囲の進展を示しています。
1573年、小谷城攻略へ
虎御前山城を前線基地として、織田軍は小谷城への圧力を強めました。
1573年には朝倉義景軍が刀根坂で大敗し、浅井氏が孤立。小谷城への本格攻撃が進み、浅井氏は滅亡します。
浅井・朝倉氏滅亡後に役割を終える
虎御前山城は、小谷城攻略という目的を果たした後、前線基地としての役割を終えました。
短期間だけ使われた城ですが、その短さこそ「作戦のための城」だったことをよく示しています。
現在残る遺構
現在も虎御前山には曲輪、腰曲輪、土塁などの陣城遺構が残ります。
建物ではなく地形や土の構造を見ることで、織田軍がどのように尾根を利用したのかを理解できます。
虎御前山城が重要な理由
虎御前山城は豪華な天守を持つ有名城ではありません。
しかし、横山城→虎御前山城→小谷城という前線の移動から、織田軍が浅井氏を段階的に包囲した過程を最も分かりやすく示す城です。
虎御前山城についてよくある質問
虎御前山城を築いたのは誰ですか?
織田信長です。1572年に築かれました。
何のための城ですか?
浅井氏の小谷城を包囲・攻略するための前線基地です。
羽柴秀吉もいましたか?
はい。長浜市の資料では、羽柴秀吉が城番を務めたことが確認されています。
現在も残っていますか?
建物は残っていませんが、曲輪や土塁などの陣城遺構が残ります。
虎御前山城の主要出典・参考資料
城・拠点情報の確認に使用した主要な史料・公的資料・研究資料などを掲載します。
史跡小谷城跡保存管理計画書
ジャンル② 小谷城・姉川古戦場と浅井氏関連史跡
研究・出典確認用データ
表示値は戦国人に登録されたデータです。研究利用では、各出典の原資料・刊本・論文等をあわせて確認してください。
このページとあわせて見る
人物・家・勢力・旧国・地域・時代・合戦・城の登録データから、つながりの深いページを自動で選んでいます。
織田信長
1534年生まれ。尾張を基盤に勢力を拡大し、桶狭間の戦い、美濃攻略、上洛、安土城築城などを経て天下統一を進めた。1582年、本能寺の変で没した。
詳しく見る →横山城
近江・横山丘陵上の山城。1570年の姉川の戦い後、羽柴秀吉が城番として約3年間預かり、織田信長の小谷城攻略の前線基地となった。
詳しく見る →小谷城
北近江を支配した浅井氏三代の居城。1525年頃に浅井亮政が築城し、1573年に織田信長軍の攻撃で落城した。
詳しく見る →姉川の戦い
1570年、近江国姉川周辺で浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が戦った合戦。
詳しく見る →小谷城の戦い
天正元年(1573年)、織田信長が北近江の浅井氏本拠・小谷城を攻め、浅井長政が自害して浅井氏が滅亡した戦い。
詳しく見る →刀根坂の戦い
1573年8月、浅井氏救援から撤退する朝倉義景軍を織田信長軍が近江から敦賀へ至る刀根坂で追撃し、朝倉軍が大敗した戦い。
詳しく見る →虎御前山城を起点に、もう一歩調べる
この記事に登録されている情報から、年代・家・地域・関係・史料へ移動できます。不明な情報は推測して補いません。
表示される年・分類は、このページに登録済みのデータをそのまま利用しています。ツールの結果だけを新しい史実や因果関係の根拠として扱わないでください。
