山崎の戦い
天正10年(1582年)6月13日、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀と、中国地方から急ぎ戻った羽柴秀吉が山崎周辺で戦った合戦。光秀は敗れ、勝龍寺城へ退却した。
近畿地方に関係する人物・合戦・城・勢力を横断して確認できます。地域ごとの戦国史をまとめて探したいときに使えるデータベースです。
人物や勢力と関係する合戦・事件を横断できます。
1573年8月、浅井氏救援から撤退する朝倉義景軍を織田信長軍が近江から敦賀へ至る刀根坂で追撃し、朝倉軍が大敗した戦い。
1570年、近江国姉川周辺で浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が戦った合戦。
天正元年(1573年)、織田信長が北近江の浅井氏本拠・小谷城を攻め、浅井長政が自害して浅井氏が滅亡した戦い。
天正10年(1582年)6月13日、本能寺の変後に明智光秀と羽柴秀吉が山崎周辺で戦った合戦。光秀は敗れて勝龍寺城へ退却した。
天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が京都の本能寺に滞在していた織田信長を襲撃し、信長が自害した事件。
天正11年(1583年)、本能寺の変後の織田家中の主導権をめぐり、羽柴秀吉と柴田勝家が近江・賤ヶ岳周辺で戦った合戦。
本拠・支城・陣城など、関係する城郭データです。
明智光秀が1577年頃、丹波攻略・平定の拠点として築いた平山城。本能寺の変では光秀がこの城から出陣したとされる。
京都防衛の要衝に位置する城。1571年に細川藤孝が信長の命で改修し、1582年の山崎の戦いでは明智光秀が拠点として使用した。
織田信長が天正4年(1576年)に築城を開始し、天正7年(1579年)に天主が完成して移り住んだ城。天下統一の拠点として築かれた。
北近江を支配した浅井氏三代の居城。1525年頃に浅井亮政が築城し、1573年に織田信長軍の攻撃で落城した。
天王山山頂に残る山城。現在残る城跡は1582年の山崎の戦い直後に羽柴秀吉が築いたとされる。
近江・横山丘陵上の山城。1570年の姉川の戦い後、羽柴秀吉が城番として約3年間預かり、織田信長の小谷城攻略の前線基地となった。
1572年、織田信長が小谷城攻略のため虎御前山に築いた大規模な陣城。信長の本営となり、羽柴秀吉が城番を務めた。
琵琶湖岸にあった城。羽柴秀吉が入城して今浜を長浜と改め、城下町を整備して数年間居城した。
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天正10年(1582年)6月13日、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀と、中国地方から急ぎ戻った羽柴秀吉が山崎周辺で戦った合戦。光秀は敗れ、勝龍寺城へ退却した。

明智光秀が天正5年(1577年)頃、丹波攻略の拠点として築いた平山城。本能寺の変では光秀がこの城から出陣したとされる。

織田信長が天正4年(1576年)に築城を始め、天正7年(1579年)に天主が完成して移り住んだ城。天下統一の拠点として築かれ、本能寺の変後に天主・本丸が焼失した。

天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が京都の本能寺に滞在していた織田信長を襲撃した事件。信長は自害し、織田政権の後継をめぐる大きな転機となった。