小谷城の戦いは、天正元年(1573年)、織田信長軍が北近江の浅井氏本拠・小谷城を攻め、浅井長政らが最期を迎えた戦いです。小谷城の落城によって、浅井氏の北近江支配は終わりました。
天正元年(1573年)、織田信長が北近江の浅井氏本拠・小谷城を攻め、浅井長政が自害して浅井氏が滅亡した戦い。
小谷城攻め
小谷城落城
織田方の勝利・小谷城落城・浅井氏滅亡
情報確認日
2026年9月19日
小谷城の戦いはなぜ起き、何を変えたのか
背景・出来事・結果・その後への影響を、一連の流れとして整理します。
なぜ起きたのか
小谷城の戦い
どう終わったのか
その後どう変わったのか
この戦いは1573年だけを見ても理解できません。1570年の姉川の戦い以降、織田方は周辺拠点を押さえながら浅井氏を徐々に包囲しました。小谷城落城は、約3年間続いた浅井・織田抗争の最終局面です。
小谷城の戦いとは?まず押さえたいポイント
- 1573年、織田信長軍が浅井氏本拠・小谷城を攻めた
- 浅井長政・浅井久政が最期を迎えた
- 浅井氏はこの戦いで滅亡した
- 直前に朝倉義景軍が刀根坂で大敗していた
- 小谷城は山全体を利用した大規模な山城だった
- 落城後、羽柴秀吉が旧浅井領を与えられた
- 北近江の支配拠点はその後、長浜城へ移っていく
小谷城の戦いの陣営・参加勢力
登録済みの陣営データをもとに、主な勢力・指揮者・参加人物を整理しています。
織田方
浅井方
小谷城の戦いの経過
開戦前から決着まで、登録されている出来事を時系列でたどります。
-
織田家と浅井家の対立が本格化
姉川の戦いなどを経て、北近江で両勢力の戦いが続く。 -
織田信長が小谷城を攻撃
信長が小谷城への攻撃を本格化させ、本丸へ攻め込む。 -
浅井長政が自害
小谷城を支えきれず、浅井長政が自害する。 -
羽柴秀吉が北近江を与えられる
浅井攻めで功績を挙げた秀吉が旧浅井領を与えられ、小谷城に入る。
小谷城の戦いの勝敗を分けた転機
戦況が大きく動いた局面を、「何が起きたか」「なぜ重要だったか」「その後どう変わったか」に分けて整理します。
小谷城本丸への攻撃
小谷城の戦いの主要人物・参戦武将
この出来事に深く関わった人物を、主要人物と参戦・関係人物に分けてたどれます。
主要人物
合戦・事件の中心となった人物。
織田信長
※ 参戦・関与の範囲や役割には史料・研究上の差がある場合があります。陣営データに確度情報がある場合はカード内に表示します。
戦国人物一覧を見る →小谷城の戦いに関係する城・拠点
この合戦・事件との関係が登録されている城・砦・館などの拠点をたどれます。
小谷城
虎御前山城
横山城
※ 関係城には、直接戦闘が行われた城だけでなく、進軍・籠城・本拠・後方拠点など、この出来事との関係が登録された拠点を含みます。
城・拠点一覧を見る →なぜ織田信長と浅井長政は敵対したのか
浅井長政は織田信長の妹・お市の方と結婚し、両家は一時婚姻同盟を結んでいました。
しかし1570年、信長による朝倉氏への軍事行動をきっかけに、浅井氏は朝倉方に立って織田氏と敵対します。
1570年の姉川の戦いでも決着しなかった
姉川の戦いでは織田・徳川方が優勢となりましたが、浅井氏は小谷城を維持しました。
その後も北近江では戦闘と包囲が続きます。小谷城攻略は姉川の勝利だけで直ちに実現したものではありません。
横山城を前線基地に浅井氏を圧迫
姉川後、織田方は横山城を前線拠点として利用しました。
羽柴秀吉が城番を務めたことでも知られます。横山城を確保することで、小谷城周辺への継続的な軍事圧力をかけやすくなりました。
1572年、虎御前山城へさらに前進
織田方は小谷城に近い虎御前山にも陣城を築きました。
前線拠点が小谷城へ近づいたことは、浅井氏の行動範囲が狭まり、包囲が強まったことを示します。
朝倉義景は浅井氏救援へ出陣
浅井氏の重要な同盟相手だった朝倉義景は、織田方の圧力が強まる中で救援に動きました。
1573年にも朝倉軍は近江へ出陣します。しかし戦況悪化の中で越前への撤退を開始しました。
刀根坂の戦いで朝倉氏が崩れる
撤退する朝倉軍を織田信長軍が追撃し、刀根坂で大きな打撃を与えました。
朝倉義景は一乗谷へ敗走し、その後自害します。浅井氏にとって最大の同盟相手が短期間で失われたことは決定的でした。
小谷城はどんな城だった?
小谷城は小谷山全体を利用した大規模な山城です。
本丸だけでなく、大広間、小丸、大嶽など複数の曲輪・拠点が山中に配置されていました。浅井氏三代の本拠として、軍事・政治・生活の中心を担っていました。
山城が強くても孤立すれば守り切れない
小谷城は防御性の高い山城でした。
しかし周辺拠点を織田方に押さえられ、援軍の朝倉氏も崩壊した状況では、城そのものが堅固でも長期的な防衛は難しくなります。城だけでなく補給・同盟・周辺支配が重要だったことが分かります。
1573年、織田軍が小谷城へ本格攻撃
天正元年、織田信長軍は小谷城への攻撃を本格化させました。
長浜市の歴史計画では、信長自身が小谷城本丸を攻撃したことが確認されています。
浅井久政と長政が最期を迎える
城内では浅井久政・長政がそれぞれ最期を迎えました。
落城時の細かな戦闘経過や人物ごとの行動には後世史料の叙述も含まれます。このサイトでは、長浜市の保存管理計画などで確認できる骨格を中心に扱います。
お市の方と娘たちは生き延びた
浅井長政の妻・お市の方と娘たちは、浅井氏滅亡後も生き延びました。
娘の茶々・初・江はその後、豊臣家・京極家・徳川家と深く関わります。小谷城の落城は大名家の滅亡である一方、その家系は次の時代へ続きました。
浅井氏滅亡後、羽柴秀吉が北近江へ
浅井攻めで功績を挙げた羽柴秀吉は、旧浅井領を与えられ、小谷城に入りました。
秀吉にとって北近江支配は、織田家臣として一地域を治める大きな転機です。
小谷城から長浜城へ
秀吉はその後、琵琶湖岸に長浜城を築き、城下町整備を進めました。
山上の小谷城から湖岸の長浜城へ政治拠点が移ることは、北近江の支配構造が浅井氏から秀吉へ変わったことを象徴しています。
小谷城の戦いが重要な理由
小谷城の戦いは浅井氏の滅亡だけを意味するものではありません。
姉川から続いた長期戦が終わり、信長の近江支配が大きく進み、さらに羽柴秀吉が北近江の地域支配者へ成長する転換点でもありました。
小谷城の戦いについてよくある質問
小谷城の戦いは何年ですか?
天正元年(1573年)です。
小谷城の戦いで誰が滅亡しましたか?
北近江の戦国大名・浅井氏です。
浅井長政はどうなりましたか?
小谷城落城の中で自害しました。
小谷城落城後、誰が北近江を治めましたか?
羽柴秀吉が旧浅井領を与えられ、その後長浜城を築いて北近江支配を進めました。
小谷城の戦いの主要出典・参考資料
合戦・事件情報の確認に使用した主要な史料・公的資料・研究資料などを掲載します。
長浜市歴史的風致維持向上計画
史跡小谷城跡保存管理計画書
一言主17 浅井家の450年
研究・出典確認用データ
表示値は戦国人に登録されたデータです。研究利用では、各出典の原資料・刊本・論文等をあわせて確認してください。
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織田信長
1534年生まれ。尾張を基盤に勢力を拡大し、桶狭間の戦い、美濃攻略、上洛、安土城築城などを経て天下統一を進めた。1582年、本能寺の変で没した。
詳しく見る →横山城
近江・横山丘陵上の山城。1570年の姉川の戦い後、羽柴秀吉が城番として約3年間預かり、織田信長の小谷城攻略の前線基地となった。
詳しく見る →小谷城
北近江を支配した浅井氏三代の居城。1525年頃に浅井亮政が築城し、1573年に織田信長軍の攻撃で落城した。
詳しく見る →虎御前山城
1572年、織田信長が小谷城攻略のため虎御前山に築いた大規模な陣城。信長の本営となり、羽柴秀吉が城番を務めた。
詳しく見る →姉川の戦い
1570年、近江国姉川周辺で浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が戦った合戦。
詳しく見る →刀根坂の戦い
1573年8月、浅井氏救援から撤退する朝倉義景軍を織田信長軍が近江から敦賀へ至る刀根坂で追撃し、朝倉軍が大敗した戦い。
詳しく見る →小谷城の戦いを起点に、もう一歩調べる
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